第3回:カメラマン 武藤章さん
コンサートホールに出かけると、会場前で大量に演奏会のチラシが配られています。音楽雑誌のページをめくれば、さまざまな公演やCDの新譜情報が載っています。そこで必ず目にするのが、アーティストの宣材写真(通称「アー写」)や、ジャケット写真、インタビュー時のカットなどの写真です。音楽と音楽家のメディアにとって、写真は欠かせないもの。今回の「つながり。」で訪問したのは、カメラマン武藤章さんのスタジオです。主にピアニストたちの素敵な写真を手がけている武藤さんにお話を伺いました。
その人の良さを、そのまま写真で出したい
最近のお仕事から
――萩原さんの新しいアー写、とても素敵でびっくりしました。こちらも撮影は武藤さんでしたか! 最近は音楽的にも人間的にも、一段と成長されていますが、写真にそれが表れているように感じました。
武藤 事務所さんからも、成長に伴い少し雰囲気を変えた新しいお写真を、という依頼でした。
――武藤さんはこれまで、「ムジカノーヴァ」や「バンドジャーナル」といった雑誌の表紙の写真も担当されていますし、CDのジャケット写真なども手掛けておられますね。
武藤 「ムジカノーヴァ」は数年前から表紙がイラストになりましたが、その前までは多くのピアニストさんの写真を撮らせてもらいました。雑誌だと、毎月ではないですが「ショパン」や「ハンナ」の表紙も担当しています。CDは、最近だと、これですね。トランペットの佐藤友紀さんのジャケット。ここで撮影しました。
――かっこいいですね! まるでトランペットから火が出てるみたい!
武藤 これね、トランペットを動かしてもらってるんです。それをスローシャッターで撮影。これは楽器を真っ直ぐ動かしてもらった写真ですが、回してもらったものなんかは、鳥が飛んでいるようで綺麗だった。
――すごいアイディアですね。
武藤 なんでこういう写真を撮ったかというと、雑誌の仕事では「しっかり楽器を見せて」という依頼ばかりなので、その反動で楽器をブラしてやろうと思ったんです(笑)。レコード会社からは「おまかせ」ということだったので、最初に自分で試作を撮って佐藤さんにお見せしたら、「これでいきましょう!」ということに。
0.2秒で目に止まる写真を目指して
――武藤さんが音楽家の写真を撮影するときに、いつも心がけていることはありますか?
武藤 特にないです。
――え、そうなんですか。
武藤 アーティストの方は自分を発信する人たちですから、写真でどうこうしようというのではなく、その人の良さがそのまま出せたらいいなとは思っています。お寿司屋さんで「ヘイッ、おまち!」とトンっとお寿司を出すみたいに、単純に、シンプルに。
――たしかに、お寿司は素材そのものの質と鮮度が、そのまま味わえたら美味しい。
武藤 僕が目指している写真は、じっくり見て良さが伝わる写真じゃなくて、0.2秒で目に止まる写真です。コンサート会場でみんな大量のチラシを見ますけど、休憩時間とかにピピピピ……と見て、いらなければゴミ箱に捨てられちゃう。パッと見て、いかに目に止めてもらえるか。単純であれば単純であるほうが指が止まるだろう、と思うんです。「良い写真」というより「売れる写真」を目指しています。
もちろんチラシはデザイン・ワークですから、写真はその中の一つの素材にすぎません。デザイナーさんが全体をデザインするときに、デザインしやすい写真を提供していければ間違いはないのかな、と。
――なるほど。でも目に止まる綺麗な写真を撮るには、やっぱり光の当て方とか角度とか、カメラマンさんの腕にかかっている部分は大きいと思いますけどね。
武藤 まぁ、ライティングも単純だから、そんなにテクニックとかないですよ。だいたい顔をメインに光を当てますが、お月様と一緒で、満月にしたいか、半月にしたいか、三日月にしたいかを考える。
本当を言うと、人を綺麗に写したいと思ったら、綺麗な人がいればいいだけなんですよ。そこに人の手が入るとやっぱり違います。だから、僕は撮影時にヘアメイクさんの存在が絶対必須! ヘアメイクさんは偉大です。ピアニストにとっての調律師さんくらいに重要です。
カメラマンの仕事の種類
――武藤さんは現在、アーティストの撮影がお仕事の中心ですが、カメラマンさんのお仕事には他にどんなジャンルというか、種類があるのでしょうか。
武藤 まずざっくり分けると、広告という分野と、報道という分野の大きく2つに分かれます。僕が手掛けているアーティストの写真は広告の分野に入ります。
広告はクライアントからの発注を受けて、写真の技術を提供するという世界。報道は、自分が撮ったものを売り込む世界。でもカメラマンが100人いたら、働き方は100通りあると思います。僕は他の人がどう仕事をしているか知らない。報道の戦場カメラマンだって、勝手に撮影に行っているというよりも、「撮ってきてくれたら買い取りますからね」という話が、ある程度先にあるのだろうと思いますし。
でも大きく分けて、その2種類でしょう。そのほかに、芸術作品としての写真というのがありますが、広告や報道の仕事をしてもらったギャラを使って、自分のポケットマネーで勝手にやるのが芸術。僕はそう理解しています。
僕の師匠・白鳥真太郎の話をすると、彼は広告カメラマンです。広告代理店から仕事を請け負い、クライアントのために仕事をする。ギャランティをもらうので、それを貯めて、一気に作品のために使っちゃう。仕事仲間のスタイリストさんやヘアメイクさんに協力してもらって作品を作り、それで写真展を開いたり、写真集を作ったり。僕にはまだそこまでの体力はないけれど、いずれできたらいいなぁと思います。
――あ、なるほど。私のようなライターも、クライアントからの発注を受けて文を書きますが、自分が書きたい本みたいなのは別にあって、でも、そっちでは「儲け」をほとんど期待せず、それを書くための調査費用なんかを発注仕事で稼いで……みたいな部分があるので、よくわかります。
武藤 同じですよね。
カメラを持たずに写真学科へ
――どうしてカメラマンになろうと思ったのですか? いつから目指したのですか?
武藤 大学受験のときですね。高校時代は芝居の世界に憧れがあって、演劇部員でした。シェイクスピアの演劇が好きでしたね。セリフの一つ一つが歌のようで、こんなに美しい世界があるのか、と。絵も好きだったので美術部員も掛け持ちでして、夏休みに予備校のデッサンコースみたいなものにも通いました。
でも美術も演劇も、僕には才能がないのをわかっていたんです。わかっていながら、大学受験案内の本を開いたときに「演劇」で調べたら、日本大学芸術学部があった。「すげえ!」と。まさか本当に大学で演劇学科があるとは思わなかった。しかも、日芸には演劇のほかに美術、写真、映画、文芸、音楽、放送と全部で7学科(現在はデザインもあって8学科)あるじゃないですか。大学に行くならここしかない、と思いましたね。
で、写真学科を受けた。
――え、演劇でも美術でもなく……なぜそこで写真を?
武藤 美術も演劇も才能ないけど、写真だったらカメラを使って僕でもできそうな気がしちゃった。それと、美術関係で資生堂なんかの企業広告ポスターを見て、こういうものを作る仕事がしたいと思ったんですね。それならアートディレクターみたいな仕事を目指すべきなんですが、当時はそんな職種があることも知らなかった。そういうのはカメラマンが一人で作っているのかと思ってた。
バカですよねぇ。それで、カメラも持たずに写真学科に入ってしまった。そんなバカは、大学史上、僕だけだったようです(笑)。
――なんと。よく試験に合格できましたね(苦笑)。実技はなかったんですか。
武藤 小論文と面接はありました。小論文は、アンリ・カルティエ=ブレッソンという写真家の写真を見せられて、「この作品は何を伝えようとしているか述べよ」みたいなのでしたね。カルティエ=ブレッソンは写真を勉強する人なら必ず知っている有名な写真家なのに、僕は全然知らなかった(笑)。でも論文は構成力の問題。筋の通った文章は書けたので合格できました。
――で、カメラも持ってないのに、入っちゃった!
武藤 同級生は、写真館の息子とか娘とか、高校時代写真部でしたとか、ずっと鉄道の写真を撮ってきましたとか、そういう人たち。僕はカメラに触ったこともなかった。
――授業が始まったら、カメラ使いますよね? どうしたんですか?
武藤 夏休みにアルバイトで稼いで、やっと夏休みも終わる頃にカメラを買いました。だから、夏休みが終わってから夏休みの課題を撮るかっこうに。授業までに間に合わせて。
――カメラを買うためのアルバイトは何をしたんですか?
武藤 カメラ売ってました(笑)。
■武藤さんが手がけたアーティスト写真
「本当にやりたい仕事」への回路
どうせ一生やることなら、今はやらない
――大学1年の夏休みのカメラ売りのバイト代で買ったカメラは、どんなカメラだったんですか?
武藤 ニコンFEという35mmの最高級機の2つ下、入門レベルのカメラです。それまで実習ではシノゴばっかりでしたが。
――しのご?
武藤 あ、4inch×5inchのカメラです。「4×5」って書いて「シノゴ」って読みます。8×10は「エイト・バイ・テン」、略してバイテンなんて呼びます。5×7は「ゴー・ナナ」、そしてなぜか35mmは「35ミリ」。古い人だったら「ライカ判」って言うかもしれない。ライカが作った規格なので。全部フィルムの大きさです。
――へぇ! 面白いですね。そういう用語も学科では飛び交っていたんですか。
武藤 飛び交っていたんでしょうね。最初は、4×5で四角いものをきちんと四角く写すとか、格子状の模様をきちんと歪ませずに写すとか、台形のものを写す角度を変えることで真四角に写すとか、建築写真の基礎を徹底的にやりましたね。
今はそんなのコンピューターでピーッとできてしまうけど(笑)。もちろん、今でも建築写真を専門にやっている人は、コンピューターなんて使わないと思いますけどね。僕は今ならボタン一発(笑)!
――でも、基礎を徹底して実践するって、さすが写真学科ですね。カメラを手にされてからは撮影の毎日ですか?
武藤 いえ、自分は将来ずっと写真をどうせやっていくんだから、今は真面目に写真やらなくてもいいな、と思ってました。
――え……変わった思考回路……ですね(笑)。将来やっていくのだから、真面目に勉強しよう、なんて思いそうですけど。
武藤 日芸はせっかく映画・放送・美術・音楽・文芸・演劇の学科もあるんだから、写真だけ勉強するなんて、もったいないじゃないですか。専門学校じゃないんだし。日芸に入った以上は他の学科ものぞいてやろうと思って、単位にはならなかったけれど、映画や放送の学科の授業にも出たりしました。それから部活動でやったのは、ミュージカル研究会。
――武藤さん、ミュージカルやってらしたんですか!?
武藤 いや、やってたというより、必死に裏方として付いていった感じですね。踊りも歌も、音楽学科の人たちがいたから、みんなすぐにプロになれるんじゃないかっていうくらい、とんでもなく上手かった。
とにかく大学は、みんなの才能をひたすら「スゴイな」と見るところでしたね。僕でもできると思った写真も、よく知らないで飛び込んだから、僕がわからない写真をみんなが絶賛していたり、自分の写真が評価されない理由がわからなかったりした。結局、大学というところは、自分はいかに才能がないかってことを思い知らされるところですねぇ!
――え、でも、自分には写真向いていないから、やめちゃおうかな……とはならなかったんですよね?
武藤 そうなんですよ(即答)。だって、他に何にもできないんですから。 写真ができなかったら、本当に何もないんだから!
好きなことならいっぱいありましたよ。でもどんなに演劇が好きでも、僕は俳優に絶対向いていない。いくら発声練習したって、向いてないのを乗り越えられる未来は見えなかった。
でも、写真でやっていくって決めていたから、学生時代くらい写真漬けの毎日を送るのはイヤで、いろいろやった。
――ええと……どうして写真に関しては「どうせやる」って思えたんですかね? 「写真でやっていく」と決心した、その決め手とは?
武藤 他に何もできないから(笑)。
カメラは「いいな」から「ダメだ」になるもの
――なんというか、すごく筋が通っています(汗)。
武藤 僕はスポーツもできないから、ボクシングをやっても絶対に相手に勝てない。でも、ガンダムのモビルスーツで戦ったら、勝てるかもと思うじゃないですか。カメラの力を使えば、僕でも表現というのができるかもしれないと思った。いろんな人がいろんな表現を実践しているのを見て、僕は本当に自分はダメだなぁと思っていたけれど、写真ならやっぱりできそうだ、と。カメラを見つめていると、そんな気がしたんですよ。
――カメラを見つめていて。なるほど。
武藤 だって、今のカメラなんてすごいし。映るじゃないですか。
――は、はい、映りますねぇ……。
武藤 機械を使うことによって、自分ができないことができるようになるのなら、文明というのは本当に素晴らしいな、と。
――バイト代を貯めて買った最初のカメラは、さぞ愛着が湧いたでしょうね。
武藤 いや、カメラは「いいな」と思って買って、最終的に「ダメだ」となるものなんです。それはもう、ガンダムと一緒です。
――ガンダムと……?
武藤 初めてガンダムに乗っても、マニュアル見ながら戦えて、相手を打ち負かしちゃったりできる訳です。それはカメラも最初はハイスペックで「こりゃすごい」と何でも撮れちゃうのと一緒ですね。ところが使い慣れてくると、人間の表現の要求に機械が応えてくれない気がしてくる。人間が上達すると、機械のほうが追いついてこない感じがするんですね。そこで、よりハイスペックなカメラなら、もっと良い表現ができるような気がする……。人間の進化とマシンの進化がイタチごっこな感じで、思わずガンダムが出てきちゃったんです。カメラの性能の違いが、写真表現の決定的な差ではないんですけどね。
――ええと……大変さが、少しわかった気がします。買い換えてきたカメラの台数、数えきれます?
武藤 数えきれません(即答)。いろいろを経て、今はSONYです。音楽の仕事をするので、シャッター音のしないセンサーの大きいカメラをSONYが出したところから、一気にSONY製品にしました。これは今使っているサブのカメラです。
楽器のカタログ撮影からのスタート
――大学を卒業されてからは、どのようにお仕事の世界へ?
武藤 大学3年のころから、今でいうインターンのような形で、ヤマハのカタログ写真を撮る会社に出入りするようになりました。来る日も来る日も、ヤマハの楽器を磨く毎日でしたね。僕は電子楽器が好きなので、楽しかった。当時はDX7があって、MIDIが新しい技術だった。卒業後はその会社に入り、クライアントであるヤマハのカタログ撮影を続けました。一週間、徹夜で頑張ることもありましたよ。
――早くも音楽とのつながりがスタートしていたのですね!
武藤 そんなある日、新しいカタログが出来上がったので見ましたら、中のページは全部僕らが撮影したものでした。でも……。
――でも?
武藤 表紙はブーニンだったんです。僕らが撮ったものではない、ブーニンの華やかな写真。
そのときに思っちゃったんですね。僕がやりたいのは、こっちだ、と。中のページの撮影でどんなにお金をもらっても、自分が仕事として本当にやりたいのは、こっち(表紙)側だ、と。でも、だからといって、どうしたらそちら側の仕事に回れるのか、想像がつかなかった。
――どうしたんですか?
武藤 とりあえず会社やめました!
師匠・白鳥真太郎氏との出会い
――潔いですね!
武藤 「カメラマンになりましたから!」 と言ったって、だれも仕事なんてくれません。どうしたら表紙の仕事がもらえるのか、見当もつかなかった。それで、師匠・白鳥真太郎の門を叩きました。まだ会社にいた頃、APA日本広告写真家協会の展覧会で、白鳥師匠の対談を聞いて感激しましてね、勉強するなら、こういう人のもとで学びたいと思っていたんです。
師匠はコマーシャルフォトの第一線で活躍してきた人。としまえんや、ラフォーレ原宿や、トヨタ自動車などを手がけています。なんのツテもなかったので、突然訪ねて「撮影を勉強させてください」とお願いしました。こころよく「いいよ」と言ってくださって、アシスタントとして師匠のもとで働かせてもらえることになったんです。
――すごいことですね……当時おいくつでしたか?
武藤 30になる頃ですね。当時は人生どうしていいかわからなかったですから……今ならできない(笑)。それにしても、師匠のやっている仕事はデカすぎた。電通や博報堂とやり合う仕事ですからね。世界中、随分いろんなところに撮影で連れて行ってもらい、いろんなことを教えてもらいました。
――師匠のもとには何年いらしたんですか?
武藤 5年です。人生で最高に素晴らしい、なんの不満もない5年間。しょっちゅう怒られてましたけど(笑)。でも、師匠の怒り方には愛がありましたね、理不尽な怒り方ではなくて。
――どんなことを教わりましたか? 師匠のもとでの一番の大きな学びは何でしたか?
武藤 撮影に対してのことと、生き方に対する全般的なことと、いろいろあるんですが、すべて、一つ一つが勉強でしたね。
テクニカルなことで言えば、たとえば、カメラマンが自分の満足度に達するまで粘り、「もうちょっと! ほら!」なんて言いながら撮り続けると、撮られる側の人の心はだんだん離れていってしまうんです。「飽きられる前に終わらせる」。師匠から教わったことの一つです。
――生き方に対することでは?
武藤 自分で稼いだ金で、作品撮りをしろ、ということですね。人によっては、ちゃっかりとクライアントからいただいた仕事の中で、自分の作品のように撮ってしまうカメラマンがいる。でも、その仕事の作品はクライアントのためのものだから、「ついで」で自分の作品撮りをしちゃうのは、あまり良くない。自分が作品として伝えたいことは、ちゃんと仕切り直して、自分のお金でやりなさい、と白鳥師匠から教わりました。
歴史を切り取るカメラマンの目
仕事の依頼待ち1年
――武藤さんは、師匠である白鳥真太郎さんのもとでアシスタントを勤めていた「最高に素晴らしい5年」にピリオドを打ち、独立されたのですよね。きっかけは何だったのですか?
武藤 APA日本広告写真家協会のビエンナーレ展で部門賞を受賞したことですね。入賞したので一区切りかな、と。師匠にも気持ちを伝えて独立しました。
――どんな作品で入賞を果たしたのですか?
武藤 タイトルは「1994年2月14日」。師匠と仕事でロンドンに行ったとき、オフの時間に街を歩き回って、当時大好きだったロンドンの公園や彫像などを撮りまくった。ストレートに、特に何の作り込みもしていないモノクロの写真です。
当時はカメラの世界にデジタルの波が押し寄せていて、写真も一枚で何かを語る時代は終わりだと言われていた。みんな写真を切り貼りして立体的な作品を作ったり、凝った色合いを出したりしてた。そんな作り込みの激しい作品の中で、もろ直球の僕の作品が評価されたんですね。それが良かったみたい。そういう人は他にいなかったから。
――そして独立。
武藤 そうです。独立したはいいけれど、案の定、仕事は来ない。山一証券破綻の1997年、景気低迷の時代です。そんなご時世に僕に仕事なんて来るのだろうかと思っていたら、やっぱり来ない。当時は携帯電話なんてないから、1日中電話機の前で仕事の依頼を待っていたけど、鳴らない。来る日も来る日も「今日も1日電話は鳴りませんでした」っていう電話の観察日記が書けそうなくらいだった(笑)。そんな月日が1年も続いた。
――1年も! ひたすら待っていたんですか? 電話が鳴るのを。
武藤 いえ、実は、師匠と出張してたまっていたマイレージを使って、ヨーロッパに2往復していました。
――なんと!
武藤 お金がなくて、どん底状態なのにね。はたから見たら華やかだったかも。師匠について世界中あちこち行かせてもらいましたが、まだウィーンは行ったことがなかったので観光してきました(笑)。オペラを見たり、バレエを見たり。
――優雅に聞こえます(笑)。
武藤 向こうはフラっと歌劇場に行って、一番上の桟敷席でオペラを聴くことができますよね。予定を入れていなかった夜に桟敷席に行ってみたら、案の定ステージの上なんて何も見えない。
で、ふと横をみたら、お年寄りが地面に座って、じっと音だけ聴いている。反対側を見ると、若者が薄暗い中で一筋の明かりを頼りに、スコアを食いつくように見ながら聴いている。で、アリアのシーンになると、さっきまで床でじっとしていたおじいさんが、ムクッと立ち上がって聴き始め、ウワーッと拍手をして、終わるとまた、座り込んでじっとしていた。
それを見て、僕は彼らの表情を写真に収めたいと思った。真剣な若者の表情。アリアのときだけ急に立ち上がるおじいさんの表情。でも、現実的には撮れないですよね。撮りたいけど撮れない。すごく印象に残る1コマだったのに。
こういう話って、ふだん人に話す機会もないので、今初めて話しました。突然話したら、ただウィーンに行ってきた自慢話みたいになっちゃうから。
――素敵なエピソードです。本当は、芸術と関わる人々の日常の中の、ふとした瞬間にこそ、武藤さんが切り取りたいシーンがあるのだな、と思いました。
武藤 そんな経験をして、日本に帰ってきたらお仕事が来ました。
――おお、よかったですね! どんなお仕事ですか?
武藤 じつは、師匠がポートレートを撮りたいとおっしゃっていたので、だれか芸術家をご紹介しようと思ったのです。それで、ピアニストの三舩優子さんにお声がけをしました。ヤマハのフリーペーパー「ピアノの本」の撮影でつながりがあったのです。
三舩さんにご連絡したところ「武藤さん撮ってください」と。いえいえ師匠にご紹介したくて……とお話をしたんですが、「武藤さん撮ってください」と。それで撮らせてもらったお写真が、三舩さんの事務所でも評判になったようです。そのおかげで、今のアーティスト写真を撮るお仕事へとつながっていきました。
――きっと「ピアノの本」での撮影の印象が良かったのでしょうね。
武藤 そう信じたいですね。でも、あとで聞いた話だと、当時まだ三舩さんのお子さんが小さくて、打ち合わせの現場で、僕が相手だとお子さんが泣かなかったんですって。そこがポイントだったかも(笑)。お子様の見る目にかなった。
今いちばん輝いている幸せな人に会える、幸せな職業
――今はお忙しい日々を送っていらっしゃる武藤さんですが、このお仕事をされる中で、どんなところに幸せを感じますか?
武藤 今いちばん輝いている幸せな人に会えることが、僕の幸せです。CDのジャケット写真を撮るにしても、コンサート・ツアーを前に新しいアーティスト写真を撮るにしても、写真を必要とするその人がいちばん「よし! やるぞ」と気持ちが高まっているときじゃないですか。人様の幸せと共にあれる、幸せな職業です。
そして、この仕事をしていて面白いのは、歴史に参加している感じを得られるところ。たとえば今、ホロヴィッツやリヒテルの写真を撮りたいと思っても不可能ですよね。一方で、50年後に出てくる未来の素晴らしいピア二ストの写真も僕には撮れない。だからこそ、今輝いている人たちを大切に撮りたいと思える。
ホロヴィッツの歴史にも、来るべき未来の歴史にも参加できないけれど、でも、いつか「三舩優子さんを撮った人がいるんだ」と次世代が思ってくれる。今の人の歴史は、今僕が撮る。そこに、この仕事の面白さを感じますね。
「作品撮り」をするならニューヨーク!
――武藤さんが将来、作品を撮ったり、個展を開くとしたら、どんなものを撮りたいですか?
武藤 大好きなニューヨークの撮影かな。人物よりも、都会の風景。ニューヨークには秩序があるけれど、実はカオスもある。ツインタワーがなくなって、それがショックで、一時期ニューヨークに行けなくなったりもした。仕事で出かけても、怖くて南の空を見上げられなかった。でも、ミュージカル「キャッツ」のブロードウェイ再演のニュースのおかげで、またニューヨークに対する思いが再燃してきました。
――それで、帽子にもバッジが!
武藤 あーこれ自分で作ったんです。去年、独立して20年目にして初めて、「休む!」と決めて、5日間ニューヨークに行って来ました。休みをとるのは勇気が要りますが、また行くつもり。
僕の中では歴史の捉え方に断層があって、写真の生まれる前と後とで見方が違います。人が写真という記録媒体を持った前後で考えてみても、アメリカの歴史、ニューヨークという都市はものすごく面白い。
ただ、僕が撮りたいニューヨークの風景というのは、もう今ないんですよね。かつてファイブ・ポインツという落書きの名所があったんですが、再開発で、もうこの世にない。撮りたい世界がどんどんなくなってしまうので、今あるものを作品としても撮っておくべきかもしれない。
1910年代から流行したニューヨークのアール・デコも大好きで、今も街の建築などのあちこちに息づいている。新しいビルが生まれても、アール・デコのDNAがあるというか。そろそろアール・デコが生まれて100年。リバイバルの波が来る頃かなぁと思っています。
――いつか武藤さんの「作品」も拝見したいです。
武藤 作品としての写真は、僕が今評価をもらっているようなアーティスト写真とはまるで違う。アー写は「写真の表現」とはまったく関係ありません。写っている人が偉いのであって、僕が偉いわけじゃない。
作品としての写真の良し悪しは、「写真で何を語っているか」にあります。大学時代に大変お世話になった故・澤本玲子先生がいつも「目の前のものにパッと食い付いて吐き出すだけなら、誰にだってできる。そんな写真を撮っても仕方がないだろう」とおっしゃっていました。今のInstagramなんかがなかった時代の話です。
学生だった僕には、綺麗な風景を綺麗に撮って、どこが悪いのかわからなかった。僕がロンドンの写真を撮ったときにも、「なぜあなたはそれを撮ったの? あなたは何を伝えたいの? そういうところですよ」と、玲子先生からは厳しい言葉をいただいて、卒業してからも多くを教えられました。その先生の言葉を胸に、いつかは作品撮りもしてみたいですね。
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