インタビュー
2022.10.31
飯田有抄の、音楽でつながる仕事人たち。第19回

音楽通訳・井上裕佳子〜語学はスタート地点! 透明になり「視点のぶつけ合い」の橋渡しに

クラシック音楽ファシリテーターの飯田有抄さんが、クラシック音楽の世界で働く仕事人にインタビューし、その根底にある思いやこだわりを探る連載。今回は西洋の文化であるクラシック音楽界に欠かせない「通訳」にフォーカス。語学力だけでなく、音楽への深い知識も問われる英語の「音楽通訳者」として各方面から引っ張りだこの井上裕佳子さんが登場。ジュリアード音楽院ピアノ科を卒業してから今までの道のり、そして良い仕事をしたときには「透明人間」になると語る「通訳」への想いを伺いました。

飯田有抄
飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

撮影:編集部

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ニューヨーク育ち、ジュリアード音楽院ピアノ科卒という経歴

——今回は、この連載でずっとお話を伺いたいと思っていた通訳の井上裕佳子さんです。クラシック音楽の分野における日本語・英語の通訳スペシャリストです。これまで私もアーティストインタビューで、何度も井上さんに通訳をしていただきました。井上さんが現場にいらっしゃると、テンポよく、安定した口調で、情報に漏れのない通訳でアーティストと繋いでくださるので、とても安心します。

通訳なさるのは、アーティストのインタビューや来日記者会見、トークイベント、マスタークラス(公開レッスン)などが中心でしょうか。

井上 そうですね。音楽業界以外の企業の会議通訳などもしていますが、音楽は私にとって一番大切なジャンルです。仕事の件数も多いです。

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井上裕佳子(いのうえ・ゆかこ)
アメリカ・ニューヨーク州で育つ。ジュリアード音楽院のプレカレッジを経て、同音楽院ピアノ科および同大学院を卒業。在学中はプライベートでピアノを教えるほか、学理を助手として教える。帰国後、サイマルアカデミーで通訳技術を学ぶ。現在はクラシック音楽界で著名アーティストらの取材・記者会計・マスタークラスなどの通訳をこなしながら、2007年秋より日本国内でNYメトロポリタン・オペラの代表として活動

——井上さんはニューヨーク州で育ち、ジュリアード音楽院のプレカレッジに入学、ピアノ科で大学院を修了されています。そのバックグラウンドが、専門性の高いクラシック音楽の通訳に生かされていますね。

井上  母がピアノ教師だったので、たまたま幼少期からピアノには親しんできました。でも、特別ピアノが好きだったというわけではないんです。特にピアニストを目指したこともなく、大学は普通大学に行きたかったけれど、ジュリアードは家から通えたので。

音楽通訳の始まりは「レコ芸」から

——家から通えるという理由で誰もがジュリアードに行けるわけではないですが……(笑)。そんな井上さんが通訳者になられた経緯は?

井上  とくに通訳者になろう! と思ったわけではないんです。アメリカの大学は5月の卒業で、そのタイミングで帰国しました。レコード会社に就職したいと思ったのですが、日本は4月始まりですから、タイミングがズレたんですよね。それで、次の春までに日本語をブラッシュアップしようと考えました。私はアメリカで育ったので、日本語は話せても、難しい言葉はわからないし、漢字は意味がわかっても音読ができない。日本の時事問題なんてとんでもないレベルでした。

なので、日本語学校に入ろうとしたのですが、日本人は入学させてもらえなかったのです。そこで閃いたのが通訳学校でした。きっと日本語を勉強できるのではないか、と。サイマル・アカデミーという養成学校を受験したら、なんと試験科目は英語のみ! 私にとっては楽勝でした(笑)。

ただし、入ってからが大変。「誠に僭越ながら……」みたいな日本語がわからない。センエツって何? という感じです(笑)。家庭内では使わない表現でしたもの。四字熟語なども、必死で勉強しました。

——そうだったんですか。流れるように通訳される井上さんにとって日本語がネックだったなんて信じられません。

井上  本当ですか? よかった。そこからウン十年。最初のうちはサイマル経由の仕事から始めましたが、クラシック音楽の仕事をするようになったのは、「レコード芸術」誌がきっかけでした。

音楽評論家の佐々木節夫先生に、あるピアニストの通訳をしたところ、とても気に入ってくださいました。それから佐々木先生のインタビューは毎回担当しました。そこからだんだんレコード会社や、他の雑誌や、新聞からも頼まれるようになったのです。

英語ができるだけでは、音楽通訳はできない

——それが現在のご活躍につながるわけですね。ところで、英語がよくできて、プロの通訳技術を持った人でも、クラシック音楽の用語や内容を適切に通訳できるかというと、そうはいきませんね。

井上  たしかに、ブラームス? ストラディヴァリウスって誰ですか?  弦楽四重奏って? みたいなことでは難しいですね。知識や、音楽用語の意味する概念がきちんと自分の中にないと、内容を伝えるのは難しい。もちろん私だって、「提示部」「展開部」「再現部」「対位法」のような日本語を覚える努力はしました。でも、それ以上にその意味や演奏のことが体に入っているのでスムーズに訳せるのだと思います。

とくにレッスン通訳は、音楽がわかっていないと難しいですね。受講者の演奏を聴いているあいだも、このあと先生がどんなアドヴァイスをするのか、私もある程度予測しながら聴いています。そしていざアドヴァイスが始まったら、先生と一体となりながら間髪入れずに訳します。レッスンではタイミングが大事ですね。

楽器や演奏のことがわかっていないと難しい場面というのは、たとえば弦楽器の先生たちはよく“Play into the strings!”とおっしゃいます。その“into”って単語は知っていても、感覚的にわからないと正しく伝えられませんね。

インタビューは「視点のぶつけ合いの場」

——音楽家へのインタビュー現場でも、多様な用語や深い内容が飛び交うから大変でしょうね。いろいろなアーティストがいらっしゃるでしょうし……。

井上  いろいろな方がいます。中には気難しくて怖い音楽家もいるそうですが、私は運良くお会いする機会がありませんでした。インタビュアーやライターさんにも、本当にいろんな方がいます。

——私自身、井上さんに何度も通訳していただいている身なので、そのあたりのお話はドキドキしますが、正直「それはどうなの?」っていう質問が飛び出したりもしますか?

井上  ありますよ。内容として、訳せない、訳したくない質問もあります。

——それは、どんな?

井上  アーティストのプライベートなことです。恋人と別れたという噂について質問が出たことがあって、その聞き方があまりにも失礼で……。質問者であるライターは、自分が直接その人に言うのではなく、通訳というクッションが入ることで言いやすくなるのかもしれませんね。普通なら本人に面と向かって聞けないような質問でしたし、もともとの取材内容とは関係がないことだったので、その時は「さすがにそれは聞けません」と通訳を断ったことがありました。

——うわぁ……。

井上  変な質問は、訳す時にそれなりに調整しますけど、それでもあまりに妙な質問が出たときは、“He/She wants to know……”と、「通訳者である私ではなく、このライターが聞きたいそうですが」と付けてしまう場合がありますね(笑)。通常は、話した人の言葉をそのまま伝えるのが通訳ですから、主語は”I”になるのが普通なんですが。

——日本語って曖昧な部分があって、インタビューではこちらの発言を必ずしも質問の形にしなくても、会話としてやりとりが成立する場合がありますね。日本語話者同士なら、「今回のアルバム、特に○○が素敵でした」「ありがとう、あの曲は…」みたいに。

でも、英語は5W1Hがはっきりしていますから、通訳者さんに入っていただく時のインタビューでは、準備の段階から「何を尋ねたいのか」を明確にして、「質問の形に落とし込む」ことを意識したりします。じゃないと「素敵でした~」「ありがとう。……あれ? 質問は?」みたいな、微妙な空気になってしまう。

井上  インタビュアーが何を知りたいのか、何を聞き出したいのかがハッキリこちらに伝わると、やはり私も訳しやすいですね。質問者に成り切って話せるので。

そもそも、インタビュー interviewとは、「inter」がやりとり、「view」は自分の見識。ですから、インタビュアーも自分の意見を持った上で質問をし、それに対してアーティストが応えるという、視点のぶつけ合いの場であるはずです。また、通訳者とはinterpreter、つまり「解釈をする人間」なんです。この人は何を聞きたいのかを踏まえ、その応えが相手から返ってくるように質問を投げかける必要があります。

Interviewはそういう場なんだ、と捉えないともったいないと感じます。「音楽を始めたのは何歳から?」「ご両親も音楽を?」そんな決まりきった質問だけでも記事にはなります。でも、それならメールインタビューで十分で、私のような通訳者がinterpreterとして介在する意味は薄い。インタビューがそういう内容に終始すると、正直私の充実度は低いですね。機械的な仕事で、感激はなかったなぁ、と。

通訳中、自分は無になっているから、その時は何も思わないけど。時には感動するインタビューもあります。めったにないけど、あるとやっぱり嬉しい。

——インタビューは視点のぶつけ合い! 素晴らしいお話です。しかし、今後井上さんに通訳に入っていただく時、めちゃくちゃ緊張するかも。ちゃんと充実したインタビューにしないと。”She wants to know…”って言われないように(苦笑)。

いつも私は「今日はこの人の背骨を取って帰るぞ」みたいな気持ちでインタビューに臨むんですが、通訳者によっては小骨一本取れなかった気分になることもあるんです。たとえば、ポーランド語とか中国語とか、こちらが単語ひとつわからない言語の場合で、アーティストが2~3分しゃべったにも関わらず、通訳が10秒で終わるとか。どんだけ端折ったんですか!? みたいな。「背骨どころか小骨も取れなかった」と感じると、本当にストレスフル……。

井上  テレビの通訳など見ていて、「そんなこと質問してないよ」みたいなことも多々あります(苦笑)。

——こちらの質問も捻じ曲げられているとしたら、もう対話不能ですね。怖い!それだけ通訳者さんのお仕事は重要です。

最高の通訳者は「透明人間」

——井上さんに言うのもお恥ずかしいですが、実は私も英語の翻訳の仕事をしていたり、かつて通訳の訓練も受けたことがあります。それで、通訳がどれだけ大変なお仕事かをわかっているだけに、井上さんのように精度の高い通訳をしていただけると、リスペクトが止まらない。

しかしながら、さきほどご自身でも「通訳中、自分は無になっている」とおっしゃっていましたが、通訳がもっともうまくいっている時って、通訳者さんが限りなく透明人間になっている時なんですよね。つまり、私とアーティストが、あたかも直接話をしているかのような感覚になっている時。

井上  そう。消えている時が一番成功している時。わかりにくかったり、説明がくどかったりする通訳だと、通訳者の存在が目立ってしまう。それは失敗なんです。

音楽会だって、気持ちよくて寝られる演奏はいい演奏なんですよ。上手じゃなくて、「あーまた間違った!」なんていう演奏では絶対に寝られません(笑)。

——最高な瞬間に、一番存在感が消える職業……なんだか切ない!寂しくなったりしませんか?

井上  いいえ、まったく。だって私、絶対に通訳者になりたくてなったわけでもないし、それで有名になろうとか思ったこともありませんから(笑)。気付いたら「でも・しか」でなっていたので、私まだ「自分探し」しているんですよ! 本当の自分を見つけたい。

——そんな井上さんの夢はなんですか?

井上  なんでしょう……う~ん……ハッピー・リタイヤメント! リタイヤしてゴルフ三昧の日々を送りたいですね!

——まだまだリタイヤされては困るのですが……(苦笑)。というのも、私がこの仕事を始めたのは2008年でしたが、当時、音楽の英語通訳をしっかり出来る方は2~3名と伺っていて、その頃から状況は変わっていないと思うのです。

井上  たしかにそうかもしれません。若い方に育ってもらわないと、ハッピー・リタイヤメントできないですね(笑)。

——音楽が好きで、演奏を学び、留学経験があって語学が堪能な人もいるはず。通訳のプロとして仕事するには、どんなことが大切でしょうか。

井上  語学はあくまでスタート地点なので、とにかく勉強はしないといけませんね。私だって四字熟語を頑張ったのですから(笑)。

あと、プロとしては場を和ませたり安心感を与えることも大切なので、ヒヤッとするような現場でも冷静さを保つ、など。

それと、私は物忘れがいい方です。うまくいかなくて落ち込むようなことがあっても、終わったらすぐに忘れます。

——メンタルが弱いと通訳はつとまらないですよね。

井上  それと、私は人前でも緊張もしないタイプですね。人前でピアノを弾くことに比べたら、ステージ通訳はずっと楽に感じます。

◆通訳者 井上裕佳子さんのヒミツ道具

通訳中のノート・テイキングは、あくまで記憶のサポート。
数字や、人物名の頭文字などに留める。後で自分で見返しても、まったく意味がわからない程度のメモ。
ボールペンとハンドクリーム。紙をめくる手が、痛いくらいカサカサになってしまうのだそうです。
目立たない黒っぽい服装が多いが、ジュエリー関連のお仕事もされる井上さんは、さりげなく素敵なジュエリーを纏っている。
飯田有抄
飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

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