日本のジャズを牽引してきた山下洋輔は、クラシックとどう向き合ったのか
日本のフリージャズを50年以上に渡って牽引してきたジャズ・ピアニスト、山下洋輔さん。
音楽の友ホールに到着するなり、ステージにあるベーゼンドルファーを弾き始めたーーそのダイナミズム、キレ。ピアノと戯れるような奔放な演奏にすっかり圧倒されてしまった。その後のインタビューでは、次々と飛び出すユニークなエピソードに思わず笑いが起こり、リラックスした雰囲気で進められた。
フリー・ジャズの旗手、山下洋輔さんのお人柄が滲み出るインタビューをお楽しみ下さい。
日本におけるフリー・ジャズの旗手として、半世紀以上にわたり第一線で活躍してきた名ピアニストであると同時に、エッセイや小説の傑作を残してきた作家でもある。さらにはタモリ、矢野顕子、菊地成孔、挾間美帆といった多種多様な才能をいち早く見出した目利きとしての顔ももっている。
それが山下洋輔。御年76歳になる。年初には大河ドラマ「西郷どん」にカメオ出演して話題になったことも記憶に新しい。
ピアノの鍵盤を拳や肘で激しく打ちつけたり、燃え盛るグランドピアノを演奏(グラフィックデザイナー粟津潔の映像作品なのだが、今や山下の代名詞になってしまった)したりと、どうしても過激なイメージばかりが先行しがちかもしれない。しかしながら、キチンと耳を傾けてみればわかるように、どれほど激しくとも山下の演奏には音楽をプレイする喜びがこれでもかと満ち溢れている。
そんな山下と、クラシック音楽には浅からぬ縁がある。50年を越えるキャリアのなかで、クラシック音楽とどう向き合ってきたのか、じっくりと話をうかがった。
クラシックという巨大な人類の歴史をまったく知らずに、一生ジャズという音楽ができるのか
――高校在学中の1959年から、プロのジャズ・ピアニストとして活動をされていたんですよね。
山下 高校3年生のときにプロから電話がかかってきて、「今日、うちのピアニストが休むので、代わりを頼みたい」と。いわゆるトラ(エキストラ)ですよね。プロの間でも知られるぐらいには、アマチュアの中では上手くなっていたようです。
それで、今のクラブ(ラにアクセント)ではなく、昔のミニキャバレーのクラブ(クにアクセント)などで演奏していたんですが、そういう所は「ジャズは駄目」というのが常識でした。お酒を飲んでダンスが出来るソフトな音楽しかできない。ジャズはお客さんが入る前にこっそりやるだけです(笑)。
当時、ジャズ演奏だけでやれたのは(ドラムの)ジョージ川口さんと白木秀雄さんのバンドくらいかな。その後、(1965年にサックスの)渡辺貞夫さんが日本へ帰ってきて、ジャズをライブハウスに定着させたんです。
高校を卒業してからも重宝がられて「明日5時に新宿へ来い」とか言われるんです。行く先も分からない。気がつくと米軍基地に連れていかれたり……(笑)。
――まだ基地でのお仕事があった時代なんですね。
山下 それと触れた最後の世代ですね。そういうのも楽しかったんですが、一方で、このままジャズを続けていいのかなという考えも芽生えてきました。うちは母親がピアノを持って嫁に来ていましたから、生まれた時からピアノがあったのがぼくの大きな幸運です。それでイタズラ弾きを拡大してジャズが出来るようになったのですが、母が弾くシューベルトやショパンを通じて、クラシックという人類の歴史的遺産を知っていた。それを全く理解しないで、一生、ジャズという音楽ができるのか? これは知っておかなきゃいけないんじゃないかと考えて、音楽大学の作曲科で学ぼうと決めました。
国立音楽大学に入ったのですが、これには高校時代の恩師の一言の影響がありました。数学の北原知彦先生は、当時の現代音楽の作曲家と親交のあった方なんですが「君は勉強すれば普通の大学にも行けるけど、もし音楽大学に行く気になったら、藝大ではなくて国立音大に行きなさい」と(笑)。
――なんと!? 国立音楽大学へ進まれたのは、数学の先生からのご助言だったんですね。
山下 当時の藝大に行ったら、こいつは不自由になるとわかっていたんですね。国立音大はその頃からもう、おおらかな気質で知られていたんでしょう。あそこへ行ったら、少々変なことをやってても先生たちが許してくれると。
山下 ピアノ科は無理でしたから、作曲科を目指したんです。作曲家はアドリブをするジャズマンに一番近いと勝手に考えて(笑)。それでまずピアノの深海小夜子先生に師事しました。
副科ピアノの試験があるのでレッスンに行きました。初心者用ソナタを弾いいたら、ゲラゲラ笑われましてね。「あなたが弾いているのはクラシックじゃないわよ」と(笑)。ジャズのフレーズで弾きますから、いらないところにアクセントが付いていたのかなあ。
「音大受けるなら、ここを直しなさい」と指導を受けました。そして、ぼくが作曲科に入りたいのを知って、「私のよく知っている、すごく心の広い作曲家の先生がいるから」といって、溝上日出夫先生を紹介してくださったんです。
――なるほど。それで溝上先生ならびに溝上先生の師でもある中村太郎先生のお二人に、作曲を習われることになったんですね。
山下 当時は中村教室と呼んでいましたね。受験勉強時の最初のレッスンで深海先生から「どういうものを弾いているの? 聴かせてください」と言われたので、普通にバラードを1曲弾いたんです。そしたら深海先生は「ああ、ピアノのペダルの使い方は知っているのね」と一言、それから作曲の溝上先生の方は「ああ、そういう音楽か。面白いね」と言ってくれた。良い教室に入れたのです。
それで、おふたりのレッスンに毎週通って、音大に入るレベルを知ることになる(笑)。
――まずは何が何でも入らないと話にならないわけですもんね(笑)。
山下 そうです(笑)。例えば、副科ピアノの課題曲はベートーヴェンだったのですが、ピアノソナタ6番 F-dur(ヘ長調)を選んでくれました。展開部で三連符が出てくるのですが、どうしてもクセでジャズの三連になって、スイングしちゃう(笑)。でもベートーヴェンなら、そのくらいよいだろう、かえって良いかもしれないと深海先生は考えてくれたみたいですね。そして「その展開部が終わったら、鐘が「チン」と鳴るから、そこで終わるのよ」と(笑)。素晴らしく現実的なアドバイスをもらいました。
作曲のほうは、オーソドックスな四声体の和声(ハーモニー)をやりました。それでバス課題、ソプラノ課題……色んなことを教わりました。ハーモニーを考えるのはどこかジャズでやっている事に似ていて、全然嫌ではないですね。あとは初見(※楽譜を見て、すぐに演奏すること)とか聴音(※耳で聴き取った音を楽譜に書き起こすこと)だったかな。それも上手くクリアして、入学出来たんです。一緒に入った同級生に後でコソコソ聞き回ったら、案外良い点数だったようです(笑)。それで入ったら、あとはやりたい放題!
――真面目な学生ではなかったと(笑)。学内では、いろんな方が山下さんの演奏を聴かれていたそうですね。
山下 そうなんですよ。芸術祭で部屋を借り切ってジャズ好き同士で演奏していると、なんとフルートの吉田雅夫先生(1942~63年にかけてNHK交響楽団首席奏者)が客席にいて、ビール飲みながらニコニコしている。本当にそういうほっとする学校でした。
クラシックのピアノ弾きは皆上手かった。初見の上手い奴が弾いているのを見学したときに、どんどん弾いていくから、こうするとどうなるだろうと思って、5~6ページ楽譜をパッとめくっちゃったの。そしたら音楽は何もかも変わっているのに、全然動じずにそこから弾き続ける。また適当にめくる、また弾く……いくら繰り返しても動じないから最後は譜面を取り上げちゃったんです。そしたら、止まりました(笑)。
そこで今度は僕が譜面も何もないところに座ってバーっと弾いたんですね。ジャズの得意なところですから。そしたら、今度はそいつがビックリして。「お前何でそんなことが出来るの!?」って言った。これだ! シメシメと(笑)。クラシック奏者にも苦手なことがあるんだと気付いた体験でしたね。そこで、同じ土俵で勝負しなければいいのだと思ったんです。棲み分けの発見ですね(笑)。
キューバ危機をグアム島の空軍基地で過ごした夏休み
――この経験で自分がやるべきことがはっきりされたわけですね。
山下 卒業までに5年ほどかかりましたが、人類の巨大な遺産であるクラシックというのは、一体どうなっているんだと……なんとかわかる範囲で理解して。こういうことを一応知っていれば、こっちはこっちで安心してジャズができるだろうと。変な確信を得ましたね。
あ、そうそう。あれは1962年、まだ大学に入ったばかりの年の夏休みに、グアム島の空軍基地で仕事があるっていうので、夏休みの間に帰ってこられるだろうと思って行ったら、これがだらだら伸びて……なんと10月になってしまった。そしたらキューバ危機が始まっちゃった。
――なんと……(絶句)。
山下 キューバ危機を、アメリカの空軍基地のかまぼこ兵舎のなかで経験したのは、日本人で我々だけだと思う(笑)。明日、水爆が落ちてくるかもしれない。ソ連の潜水艦がその辺にいて、真っ先にグアムを狙うんですよ。グアム島っていうのは足が4つで立っているので、どれか一発落とせば沈んでしまう。
それから飲み仲間でポーカー仲間だったアメリカ兵が、全然姿を見せなくなった。B-52って今でもありますね。毎日、あれに水爆積んで飛んでいくんです。当然、歌舞音曲は一切禁止になりまして「もうお前ら、いらないよ」とようやく帰されました。
それが一年のときですからね。大学に入ったばっかりなのに長期間出てこないので、とうとう溝上先生の堪忍袋の緒が切れて、うちの母親が呼び出された。大学生にもなって、保護者が呼ばれるという(笑)。もうお分かりのように大学には試験のときだけ帰ってきて、普段はバーやキャバレーでプロの方々と出会い、腕を散々磨きました。当時はそういう二重生活を送っていましたね。
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