レポート
2023.05.03
日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳 File.37

ヴァイオリンを弾いたアンリ・マティスが開いたシンフォニックでジャジーな世界

日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが、美術と音楽について思いを巡らし、“ラクガキ”に帰結する連載。今回は、東京都美術館で開催されている「マティス展」を訪れた小川さん。アマチュア・ヴァイオリニストであり、晩年には有名なシリーズ《ジャズ》を描いた巨匠マティス。その強烈な色彩から見える音楽性とは?

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

《豪奢、静寂、逸楽》(1904年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵) 展示風景

この記事をシェアする
Twiter
Facebook

東京・上野の東京都美術館で開かれている「マティス展」を訪れると、20世紀前半の欧州の美術界に大きな足跡を残した画家アンリ・マティス(1869〜1954年)の生涯を彩った重要な作品を眺め渡すことができる。出品作の中心は、フランス・パリのポンピドゥー・センター/国立近代美術館の収蔵品だ。

ONTOMOとしては、マティスが音楽とどう関わっていたかが大いに気になるところだ。マティスは幼少時代からヴァイオリンを学び始め、少なくとも50代の頃までは続けていたらしい。音楽が絵画の制作に何らかの影響や作用を及ぼしたと考えるのは、自然なことではないだろうか。そんな視点を交えて、本展の出品作を眺めてみたい。

ボードレールの一節をタイトルにした作品の「シンフォニックな」色使い

続きを読む
マティスはフォーヴィスム(野獣派)の画家として紹介されることが多い。激しい色使いと強い筆触が刺激的なフォーヴィスムは、20世紀初頭の欧州の美術史にインパクトを残したが、実はマティスの一面でしかない。
《豪奢、静寂、逸楽》は、マティスの作風が評論家の揶揄(やゆ)によって「フォーヴィスム」と呼ばれるきっかけになった1905年のサロン・ドートンヌの展覧会の前年に、画家のポール・シニャックに招かれた南仏サン=トロペで描いた作品だ。海辺で水浴する女性たちの姿を描いたものと見られる。作品名はボードレールの詩集『悪の華』の一節という。描かれているのが現実の風景かどうかはあまり問題ではない。実際に本展で目にして、何と強いインパクトを放つ作品なのだろうと思った。
《豪奢、静寂、逸楽》(1904年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵) 展示風景
シニャックは、絵具を点で配していく「点描」を基本にした新印象派の画家であり、マティスのこの作品にはその影響が特に色濃く見える。だが、点描を基本にはしていないフォーヴィスムに通じる激しさは、少なくとも色使いの面において十分に表れているのではないか。裸婦たちは、赤系統と青系統という対立する色の点で描かれており、色使いとしては相当刺激的だ。緑色の人体は普通は存在しない。かなり実験的な試みである。
音楽的な視点では、色彩の交響の実験と読み解くことが可能だろう。オーケストラで異なる楽器の音を舞台から少し離れた客席で聴くと、明確な音色の違いが心地よい刺激を生む一方で、それぞれが混じり合って独特の音色を形成することもある。さらに、この作品にはかなりはっきりした輪郭線もあり、華やかで変化に富んだ色彩の和音に載って、線描によるはっきりとした旋律を奏でる音楽を感じさせる。

印象に強く残る「赤」の表現

ここで、赤を基調にした作品を2点紹介しておきたい。「色彩の魔術師」の異名を取るマティスは、決して赤のみに固執した画家ではなかったが、赤が画面を支配する作品をしばしば描いた。

《赤いキュロットのオダリスク》(1921年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵) 展示風景

《赤いキュロットのオダリスク》において、当時のフランスの植民地主義の下での東方趣味を反映したという「オダリスク」(旧オスマン帝国の女奴隷)の描写は色っぽくはあるものの、妙に三次元的で、実はあまりマティスらしくない。しかし、とにかく美しく、印象が強く心に残る。パリのリュクサンブール美術館は当時、東方趣味を評価する中でこの作品を購入したという。1920年頃のマティスの代表作とみなすことができる作品だ。

《赤の大きな室内》(1948年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵) 展示風景
《赤の大きな室内》は、正確な遠近感を喪失させたところがいかにもマティスらしい。じっと見ていると、ほぼ赤い一つの画面の中で、家具や花瓶と背景の壁や2面の壁にそれぞれ掛かった2点の絵画が渾然一体となって目を楽しませてくれる。部屋の写実的な描写であることから離れたこの作品は、マティス独自の手法で風景から美を抽出したものと捉えられる。描いた部屋の壁が本当に赤かったかどうかはおそらく大きな問題ではない。
言うまでもなく、赤という色は日常生活の中でも極めて刺激的な存在である。現代の生活においては止まらなければならない信号の色であり、パトカーや救急車の回転灯の色でもある。感情にこの上ない強烈さをもって訴えかけてくる色なのだ。さて、音楽も聴覚を通じて感情に強く訴えかけ、聴衆の気分をしばしば高揚させる。鮮烈な印象を感じさせるという点で、赤は最も音楽に近い色とみなすことができるのではないだろうか。

マティスがヴァイオリンを弾いた自画像

本展の出品作の中に、ヴァイオリンを弾く姿が描かれた、極めて印象的な作品があった。《豪奢、静寂、逸楽》と《赤いキュロットのオダリスク》のあいだの時期に描かれた《窓辺のヴァイオリン奏者》という油彩画だ。

《窓辺のヴァイオリン奏者》(1918年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵) 展示風景
奏者の頭部は大雑把な球体で表現されており、ヴァイオリンの描写もあまり写実的とは言えない。左手の指はヴァイオリンの指板から外れているし、弓の使い方もなんとなくぎごちない。簡略化された人物像からは、少々幾何学的な印象を受ける。ピカソとブラックが20世紀初頭に始めたキュビスムに通じる部分もあり、マティスの個性の表出というよりも、画風探求の途上にある表現のように見える。
マティスの息子ピエールは、この人物像はマティス本人、つまり自画像と証言しているという。驚くべきことではないか。自画像として自らヴァイオリンを弾く姿をマティスが描いたというのは、かなり意味深なことと見受けられる。
この作品が描かれたのは1918年。第一次世界大戦が終わった翌年だ。大戦に際してマティスは軍に入ろうとしたが、年齢の関係でかなわなかったという。しかし、結果的に数十万人の犠牲者を出し、多くの人々を不幸にしたこの戦争は、マティスの心をも鬱屈させていたようだ。息子のジャンは軍に入隊していたというから、戦争の悲惨さはおそらくマティスの身にもしみていたはずだ。窓辺でヴァイオリンを弾くことが、どのくらいマティスにとって慰めになったのかはわからない。
だが、その姿の自画像を描くことで、ようやく救いを得られた可能性もあるだろう。簡略な筆致で描かれているだけに、悲しさや寂しさが伝わってくるようにも思うのである。そうしたことを考えながらこの絵を見ていると、幾何学性が強いにもかかわらず、情感があふれ出ているようにさえ感じられる。
この展覧会ではもう1点、ヴァイオリンを弾く女性の姿を描いたモノクロームの作品が展示されていた。
《ピアノの前の若いヴァイオリン奏者》(1924〜26年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵) 展示風景

ピアニストは存在せず、楽譜はヴァイオリンの譜面と見られる。女性はピアノを譜面台代わりに使って練習をしているのだろうか。ヴァイオリンは写実的で、女性は立体的に描かれているのだが、ピアノの鍵盤を見ると決して写実的ではない。マティスはおそらく、新しい境地に抜け出そうと試行錯誤していたのだろう。

切り紙絵で有名な《ジャズ》には別名の候補があった

マティスには《ジャズ》という、晩年になって制作した有名な作品がある。色使いが極めて鮮烈なのは、筆の代わりにはさみを持ち、色のついた紙を切って作った造形物を配置することによって制作した少限定部数の出版物だからだ。マティス自身、この作品に添えた文章の中で”Dessiner avec des ciseaux”(ハサミで描く)という言葉を使っている。20点制作した切り紙絵の原画を型を使って転写して出版物としており、作者の手書きの文章を加えた版(270部)と、図版のみの版(100部)があるという。
《ジャズ》(1947年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵)展示風景
《ジャズ》(1947年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵)展示風景
《ジャズ》(1947年、ポンピドゥー・センター/国立近代美術館蔵)展示風景
右端の絵は剣を呑むパフォーマンスを見たサーカスの風景から着想したといわれる
切り紙ゆえ色むらのないシルエットがモチーフとなっているうえ、原色を基本としているからか、色彩の表現は油彩画よりも鮮烈だ。動きを感じさせる絵も多い。一方で、必ずしも楽器の演奏や歌とは関係がなさそうなモチーフが多く登場するこの作品になぜ《ジャズ》というタイトルがついているのかがわからない、という人もいるのではないだろうか。
実は出版される前、タイトルには、《ジャズ》とは別の候補があった。《サーカス》である。サーカス団で剣を呑む人間が表現された絵などは、マティスが幼少期に見たサーカスの光景をもとにしたものと見る向きもある。出版者との意見交換もあって《ジャズ》に落ち着いたようだが、この作品は音楽の「ジャズ」を十全に意識して制作に臨んでいたというわけではなかったのだ。
「ジャズ」は、マティスがこの作品を制作した当時は、世界的にかなり新しいジャンルの音楽だった。米国を発祥とし、フランスにも輸入されていたのだが、大久保恭子著「アンリ・マティス『ジャズ』再考」によると、米国よりもむしろフランスのほうが、肯定的に享受された度合いが高かったようだ。自らヴァイオリンを演奏し、絵画では常に画風の革新に挑んでいたマティスにとって、即興性が豊かだったジャズはずいぶん魅力的だったのではないだろうか。だからこそ、作品名として受け入れたのだろうと筆者は想像している。
さて、マティスの《ジャズ》の音楽的な部分は、描かれた個々のモチーフよりもむしろ、表現の手法にあったと見たほうが素直に受け止められる。色彩の交響、リズムを感じさせる動き、そして多様なモチーフの展開。モチーフとして切った紙をどう配置するか。そこには音楽家が頭に浮かべたモチーフを曲の中でどう用いるかというのと同種の試行錯誤があったはずだ。晩年マティスはそれを存分に楽しみながら、制作に臨んでいたのではなかろうか。
Gyoemon《ニャズ》

切り紙絵にするにはやや技工が必要な図柄になってしまいました。猫にとっても音楽を奏でるのは楽しいのです。Gyoemonは筆者の雅号です。
展覧会情報
マティス展
 会場: 東京都美術館
 
会期: 2023年4月27日(木)~8月20日(日)
※日時指定予約制
 
展覧会公式サイトはこちら
小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

ONTOMOの更新情報を1~2週間に1度まとめてお知らせします!

更新情報をSNSでチェック
ページのトップへ