レポート
2023.08.24
日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳 File.38

音楽を大自然に戻し、五線譜が山と空の風景に化けた! 変幻自在な「音」作家、吉村弘

日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが、美術と音楽について思いを巡らし、“ラクガキ”に帰結する連載。今回は、東京メトロ南北線の発車メロディや横浜美術館前広場のサウンド・デザインなどを手がけた環境音楽作曲家の吉村弘作品を取り上げた展覧会「吉村弘 風景の音 音の風景」展を訪れた小川さん。サティの楽譜からはじまったという、音楽を「視覚」で表現した作品の数々を解説してくれました。

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

《缶楽器》等を並べた展示ケース

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音と風景の間をシームレスに行き来する作家——神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開かれている「吉村弘 風景の音 音の風景」展(2023年9月3日まで開催中)を見た筆者の印象だ。

「吉村弘 風景の音 音の風景」展が開かれている神奈川県立近代美術館鎌倉別館のエントランス付近
環境音楽の作曲家として知られている吉村弘(1940〜2003)は、1983年の釧路市立博物館のサウンドスケープ(音風景)デザインを手掛けたのを皮切りに、東京メトロ南北線の発車メロディ、横浜美術館前広場のサウンド・デザインなど幾多の環境音楽作品を手掛けてきた。
ところが本展を一望して、吉村はまた、環境音楽にとどまらない多様な表現をした作家だったことに目を開かされた。音や音楽から生まれた絵や立体や映像など、たくさんのアート作品を手掛けていたのだ。

五線譜が風景に化けた!

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吉村は、高校時代に、19世紀後半から20世紀前半にフランスで活躍した作曲家エリック・サティに触発されたのがその後の展開のきっかけとなったという。神奈川県立近代美術館企画課長の長門佐季さんは、「面白いのは、サティの音楽そのものではなく楽譜に触発されたこと」と話す。つまり、音楽に関して、最初から視覚的な興味が強かったのだ。
サティもまた、絵を描くことを好む作曲家で、筆者が以前見た手書きの楽譜は、造形的・美的にもなかなか興味深いものだった。五線譜に描いた肖像画なども残している。サティは絵画の領域と近しい作曲家だったのだ。おそらくは、吉村がもともと持っていた感性のアンテナがサティの楽譜に反応したのだろう。
エリック・サティ作曲「ジムノペディ」の自筆譜(本展には不出品)
そして、この企画展を見ていると、吉村が音楽と向き合う中で視覚的な表現をしようという積極的な意志があったことが、とてもよくわかる。
たとえば、線描からなるこの絵画は、遠目には今ひとつ何が描かれているかがわかりにくい。ところが、近寄って見ると思わぬ描写が目に飛び込んでくる。楽譜で使われる五線が変容して、風景を描写した絵になっていたのだ。
吉村弘《クワイエット・フォレスト》(部分)1996年、目黒区美術館蔵 展示風景
吉村弘《クワイエット・フォレスト》(部分)
五線は2段になっていて、左端にはそれぞれの段の左横にト音記号とヘ音記号が書かれており、一瞬「ピアノ譜なのか?」と思わせる。ところが、音符は一切書かれていない。普通に楽譜を読むように左から右に目を移していくと、線がすぐに曲がり始める。五線はあるところでは山になり、あるところでは樹木が生えた平地になっている。風景を描写していたのだ。左から移動しながら鑑賞すると、アニメーションを見るときのような感覚が生じた。「あれ? 音楽かと思ったのに、絵だったんだ」と認識したときの軽い錯誤感がまた、なかなか心地いい。吉村の脳の中を覗き見ることができる作品だった。
通常、作曲は、電子譜を含めて、印刷されたりアプリ上にすでに書かれたりした五線譜の上に、ペンやパソコン入力で音符や記号を書き足していくものだ。しかし、長門さんによると、「吉村は五線も自分で引いていた」という。だからこそこうした作品が生まれたのだろうし、音楽がヴィジュアルと強く結びつく要因にもなったのだろう。

ケーブルカーのための音楽とは?

少々変わった楽譜も展示されていた。普通は水平方向にのみ表現されている五線譜が、斜めに上下している。音符が書かれているので、楽曲であることがわかる。

絵楽譜《22°9 妙見ケーブルカー》(能勢電鉄妙見ケーブルカー車内音)1994年、目黒区美術館蔵 展示風景

タイトルの中に「ケーブルカー」という言葉がある。山を上り下りする実在のケーブルカーのために書かれた音楽だったのだ。斜めに上下すること自体は五線譜のルールを逸脱しているが、絵画表現がもたらすインパクトを楽譜に与えている。

トイピアノはなぜ梱包されているのか?

それにしても、吉村は自由だ。考えてみたら、音楽は多くのルールに縛られて成り立っている。だからこそ楽しめる部分は大きいのだが、吉村はルールから解き放たれる機会を見逃さず、そこから新しい表現が生まれる。たとえばこの作品はどうだろう。

吉村弘《Piano Horizon #5》1985年、目黒区美術館蔵 展示風景
「トイピアノ」と呼ばれる子ども用の玩具が梱包されている。作品名を見なくても、形から、小さなピアノであることがわかるところがミソだ。五線譜を普段とは違う使い方をして風景画を生んだように、吉村はトイピアノを包むことで鑑賞者に別の感興を起こさせる。
包むことをコンセプトにした美術家としては、ベルリンの国会議事堂などを巨大な布で包んだクリスト&ジャンヌ=クロードが有名だ。彼らは物を包むことによって本来の機能を奪い、鑑賞するためのアート作品に変容させた。
同じように見える吉村の作品に、筆者は違う思いを抱いた。荷物用のタグが付いているということは、このトイピアノはおそらくどこかに運ばれていくことになっているのではないか。そして、行き着いた先では梱包を解かれ、かわいい音を奏で始めるに違いない。そんな想像をさせるのだ。
吉村弘《トイピアノ》1973年頃、神奈川県立近代美術館蔵 展示風景

トイピアノを使った作品としては、自動演奏をする装置として見せたこの作品も興味深い。パンチカードに曲が記録されていて、このトイピアノによって再生させる仕組みであることが類推できる。吉村は環境音楽の作曲家だが、楽器は独学だったという。だからこそ、楽器の扱い方も自由だったのだろう。

おもちゃ箱のような展示ケース

《缶楽器》等を並べた展示ケース
このおもちゃ箱のような展示ケースの中には、耳の形に切られた紙コップ作品《耳》や、吉村自身が音を出すパフォーマンスをする道具などが入っていた。中で特に気になったのが《缶楽器》だ。確かに空き缶は中が空洞になっているので、もともと楽器としての要件の一部を備えている。
吉村はただ缶を楽器として遊ぶだけでなく、どうすれば面白い造形になるのか、あるいはどうすれば面白い音が出るのかなどを、スケッチを描くなどして熱心に取り組んでいたようだ。音楽を発するためのものだと考えれば、こうしたスケッチは楽譜に類するものと捉えることも可能だろう。
缶楽器(カン楽器)に関して描かれたスケッチが並んだコーナー

実際に自らパフォーマンスをすることで、その構想が実現するかどうかを試してもいる。

映像「吉村弘展 耳からの風景 サウンド・パフォーマンス」(編集制作:2023年、編集:大田晃)2001年9月8日、ジーベックホール、神戸 神奈川県立近代美術館蔵 展示風景

美術館の「サウンド・ロゴ」とは?

ところで、この展覧会が神奈川県立近代美術館で開催された大きな理由は、吉村が2003年に同館葉山館と鎌倉館(老朽化等のため2016年に閉館)のための「サウンド・ロゴ」を作曲したことにある。《FOUR POST CARDS》と題されたこの作品は、両館の開館時と閉館時に流すために作曲されたもので、吉村のラスト・アルバムとなったCDには合計4曲の音で作った「ロゴ」が収録されている。鎌倉館のために作曲された2曲は復活することになり、この企画展が開催されている鎌倉別館で朝夕に流されている。おそらくはそれを知らずに来た来場者の心をも、心地よさで満たしていることだろう。

吉村弘《FOUR POST CARDS 神奈川県立近代美術館のための音楽》2019年
葉山館と鎌倉館のために作曲された「サウンド・ロゴ」計4曲のほかに、葉山館近くの海辺の波音などがミックスされた特別ヴァージョン2曲が収録されている。
本来はビジュアルのものであるロゴを音で表現するのは、吉村の本領を発揮するのに、あまりにもふさわしい行為だと思う。実際に聴くと、音が何かの塊のように意識の中をふわふわと浮かんでいるように感じられた。吉村はやはり、音で風景を作る試みをしたのだろう。
この企画展は、吉村と深い縁を持つ神奈川県立近代美術館だからこそできた、貴重な取り組みだったように思う。
展覧会情報
吉村弘 風景の音 音の風景
会場: 神奈川県立近代美術館鎌倉別館
 
会期: 2023年4月29日〜9月3日
 
詳しくはこちらから

ラクガキスト小川敦生のラクガキ

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豊かな大自然の中にト音記号などの音楽記号が環境音楽ならぬ環境記号として存在したら? 意外と溶け込んだ存在になるかもしれません。Gyoemonは筆者の雅号です。
小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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