レポート
2019.11.26
飯田有抄のミーハー☆ウィーン音楽旅 vol.02

続・ウィーン古典派の残像を追う! 妄想♪音楽さんぽ〈後編〉ベートーヴェン~モーツァルト

クラシック音楽のミーハー代表、でもウィーンは初心者……という飯田有抄さんがレポートする、ウィーン古典派をめぐる旅。後編は、前編よりは写真の見ごたえあり! モーツァルトとベートーヴェンに出会えた(?)興奮をお届けします。

ミーハー魂をもつ案内人
飯田有抄
ミーハー魂をもつ案内人
飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

写真:飯田有抄
写真上:モーツァルトハウス・ヴィエナを案内してくれたスタッフのニナ・ノェリグさんと、お土産売り場にて。

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モーツァルトがここにいた!

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)。©飯田有抄

ドイツ騎士団の館

ウィーンの中心にある存在感満点のシュテファン大聖堂。その横には、ドイツ騎士団の館(Deutschordenshaus)があります。ここには25歳のモーツァルトが一時期滞在していました(1781年3月16日から5月2日まで)。

モーツァルトは故郷ザルツブルクを離れてミュンヘンに滞在し、なかなか地元に帰ろうとしませんでした。ザルツブルクのコロレド大司教は、ちっとも戻らないモーツァルトに腹を立てます。ウィーンに呼び出して話し合いを持とうとするのですが、双方ともにオトナな対応ができなかったのでしょう、残念ながら決裂することとなります。1781年、大司教の側近アルコ伯爵から、モーツァルトが“足蹴り”されたというエピソードがよく知られていますが、それが起こったのはまさにこの場所だったそうです。

「ああ、ここでかの“足蹴り”が!」と妙な興奮を覚える私でありました。不名誉なお話なだけに、モーツァルトよ、ごめんなさい。でも、その決裂があったからこそ、モーツァルトはここウィーンを本拠地として、新たな音楽人生へと舵を切ったわけです。

1781年、故郷ザルツブルクのコロレド大司教の側近から、モーツァルトが“足蹴り”された場所。
モーツァルトが滞在していることを示すプレート。

シュテファン大聖堂

ウィーンのシンボル的存在でもあるゴシック様式の大聖堂。モーツァルトがコンスタンツェとの結婚式を挙げ、また彼の葬儀も行なわれた場所です。

街中に突然現れるシュテファン大聖堂。
ウィーンの街のシンボル的存在。
ゴシック様式の外観に対し、内部の祭壇はバロック様式。

モーツァルトハウス・ヴィエナ

ウィーンで過ごした10年間に、なんと14回も引越しを繰り返したというモーツァルト。夜遅くまで楽器の音を出したために、常に近所からのクレームがあったとか、なかったとか。

中でも、およそ2年半(1784~87年)モーツァルトが暮らした家が今も現存し、自筆譜や当時の生活道具や衣装のレプリカなど、さまざまな資料が展示されています。間取りの模型などもあります。ここがキッチンで、ここが寝室、そしてここが仕事部屋、ということはここで傑作のペンを走らせていたのか〜……などと足を踏み入れると、大作曲家と心のコンタクトが取れるような気持ちになります。

この日は取材のため、特別にモーツァルトの筆跡が残る楽譜の写真も撮らせていただきました。さすがに触ることはできませんが、見るだけでもドキドキします。

2階の窓からは、モーツァルトも眺めたであろう同じ景色を見ることができます。目立つネオンや看板などもなく、この景観はこのまま残しておこうとするウィーンの人たちの思いも伝わります。

モーツァルトが暮らした、現存する唯一の建物。2階がモーツァルトの住居だった。
モーツァルトハウスの入り口。
当時のモーツァルトも興じたであろう当時のカード。
ゲーム台。
舞台装置の模型。
衣装のレプリカ。
2階の窓からの眺め。同じ景色をモーツァルトも見ていたのだろうか。
モーツァルトが16才でミラノの宮廷歌劇場のために作曲したオペラ《ルーチョ・シッラ》K.135のアリア「Ah si, scuotasi omai」。ザルツブルクの写譜屋による手稿譜だが、モーツァルト自身の書き込みで、「このオペラは、ミラノのテアトロ・レッジォ・ドゥカーレのために1773年に作曲、同劇場で謝肉祭オペラとして初演、このオペラは歌手アンナ・デ・アミーチスのために書かれたアリア」であることを伝える。
© Gesellschaft der Musikfreunde in Vienna, Archives, Library and Collections ※特別な許可のもと、撮影させていただいた楽譜で、普通は写真撮影NGです

モーツァルトのオペラ《ルーチョ・シッラ》K.135~アリア「Ah si, scuotasi omai」

ベートーヴェンがここにいた!

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)。©飯田有抄

アン・デア・ウィーン劇場

ベートーヴェンの伝記などでしょっちゅう見かけるのが「初演はアン・デア・ウィーン劇場」という情報。彼の交響曲第2、3、5、6番、ピアノ協奏曲第3、4番、ヴァイオリン協奏曲、オペラ《フィデリオ》などが初演された場所なのです。

ベートーヴェンの交響曲第2番

この劇場は1801年に建設されたオペラ劇場で、モーツァルトのオペラ《魔笛》の台本を手がけたエマヌエル・シカネーダーによって設立されました。当時の正面玄関として使われていたところには、パパゲーノ役を演じたシカネーダーのモニュメントがあります。

モーツァルトのオペラ《魔笛》の序曲、パパゲーノのアリア

ベートーヴェンは1803年3月から一時期この劇場の2階を住居としていた時期もあったとのこと。

当時の正面玄関には、シカネーダーの《魔笛》のパパゲーノ役のモニュメント。
滞在先のホテル2階から見たアン・デア・ウィーン劇場。

ちなみに今回私は、アン・デア・ウィーン劇場の真横に位置する「ベートーヴェン・ホテル」に滞在しました。

コンパクトながら、各階に「ウィーンと愛」「ベートーヴェンとビーダーマイヤー」「劇場とウィーン」などのテーマがあり、全室内装が異なるという素敵なホテルです。私が泊まったのは「ウィーンのコーヒー文化」をテーマとした1階の部屋で、オーストリアのジャーナリスト、アントン・クーをイメージしたお部屋でした。

あのアン・デア・ウィーン劇場の真横と思うと、初日の夜は、興奮してなかなか寝付けませんでした。

シックで落ち着いた雰囲気の内装。
オーストリアのジャーナリスト、アントン・クー(1890-1941)が迎えてくれた。
シンプルながら清潔感のある部屋。窓からアン・デア・ウィーン劇場が見えます。
レトロな黒電話。使用できます。
ベートーヴェン・ホテルのオーナー、バルバラ・ルートヴィヒさんと愛犬のレオポルドくん。

テアター・ムゼウム(演劇博物館)

現在、演劇博物館「テアター・ムゼウム」として市民に開かれているこの建物内には「エロイカ・ザール」と呼ばれる部屋があります。ここはベートーヴェンを支えたパトロンの一人、ロプコヴィツ侯爵という人の邸宅だった建物で、かの交響曲第3番「英雄(エロイカ)」が初めて演奏された場所。プライヴェートな演奏会でした。

元貴族の館を改築した演劇博物館では、オペラ関連の展示に加え、クリムトの名画『裸の真実』を見ることもできる。

ケルントナー通り17番(今はデパート STEFFL)

ケルントナー通りとは、ウィーン国立歌劇場とシュテファン大聖堂とをつなぐウィーンで一番の華やかな通り東京でいえば銀座のような雰囲気で、ショッピングを楽しむ人たちで賑わっています。

そんな賑やかな場所にちょっとそぐわない地味情報かもしれませんが、音楽ファンには重要なスポットがあります。晩年のベートーヴェンが弦楽四重奏曲第15番イ短調を作曲・演奏した建物が存在していたとのこと。ベートーヴェンは夏になると、ウィーンから26km南にある温泉保養地バーデン行きの馬車に、この辺りから乗ったそうです。ちなみに、弦楽四重奏曲第15番は、第3楽章がとりわけ美しいのでオススメ。温泉にゆっくり浸かっているかのような、体にじんわり沁みる音楽です。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番イ短調 第3楽章

ケルントナー通りのデパート「STEFFL」前で見かけた白い帽子の男性は、煙突掃除屋さん。彼らを見かけると、ラッキーなことが起こると言われています。
現在ではすっかりショッピングスポットとなったケルントナー通り17番地。

最後にもう一度モーツァルトに会う!

再登場、モーツァルト。©飯田有抄

ラウエンシュタインガッセ8番

上述のデパート「STEFFL」は、ウィーンでトップブランドを取り揃えた華やかなお店ですが、ケルントナー通りと反対側の小さな出口(ラウエンシュタインガッセ側)には、ウィーンで最初に製作されたモーツァルトの記念碑(ヨハン=バプティスト・フェスラー制作、イタリアの商人ピエトロ・ディ・ガルヴァーニが1849年に寄贈)が、これまた地味に、いともさりげなく置かれています。

ひっそりとたたずむモーツァルト記念碑。

なぜここにこの大きな胸像が置かれているかというと、実はこのラウエンシュタインガッセ8番地という住所は、モーツァルトが死を迎えるまで住んだ最後の家があった場所なのです。その建物のごく一部のみ、現在も残されています。亡くなった日付が刻まれたプレートを目にしながら、ついに「レクイエム」を完成させることなくモーツァルトがこの世を去ったのかと思うと、しみじみとします。

モーツァルト「レクイエム」

「モーツァルトが亡くなった家が1849年までここに建っていました」と刻まれた記念碑。
一番イケメンに見える角度から激写。
ウィーンの激動の時代を生きた3人

ここで、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの関係を少し見ておきましょう。3人の生没年に着目してください。

  • ハイドン:   1732〜1809
  • モーツァルト: 1756〜1791
  • ベートーヴェン:1770〜1827

そう、生きていた時代が被っています。

ハイドンは若きモーツァルトの才能を高く評価し、友情も抱いていました。モーツァルトは「ハイドン・セット」と呼ばれる弦楽四重奏曲を献呈するほど、名高き先輩ハイドンを尊敬していました。

ベートーヴェンはハイドンに弟子入りするために故郷のボンからウィーンへと出てきました(残念ながら師弟関係はうまくいかなかったようですが)。そのようなわけで、3人とも同じ時代のウィーンの空気を吸っていたのです。

とはいうものの、3人の生没年をよ〜く見れば、ある重要な歴史的出来事があった時代であることがわかります。1789年のフランス革命です。

それまでの貴族社会が崩れ、市民たちが台頭するという、ヨーロッパ社会激動の時代を挟んでいます。そのため、貴族(エステルハージ侯爵家)への宮仕えで音楽家としての大半のキャリアを築くことのできたハイドンと、市民社会でフリーランスとして生き抜かねばならなかったモーツァルトとベートーヴェンでは、すでに音楽家としての生き方や創作の方向性にも違いがありました。

同じウィーンで過ごしながらも、まったく異なる人生を歩んだ3人の足跡。その一端が垣間見えるスポットが、ここウィーンに点在するのです。

(おわり)

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飯田有抄
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1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

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