「ラデツキー行進曲」の実は微妙な来歴とは?〜81歳の老元帥と激動の革命
近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第1回は、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでも親しまれている「ラデツキー行進曲」をとりあげます。ハプスブルク帝国でも革命運動が起こる激動の時代に、81歳のヨーゼフ・ラデツキー伯爵を称えて作曲されたこの作品。時代背景や初演の評価から詳しく見ていきましょう。
1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...
ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートには、ちょっと特別な思いがある。クラシックを聴くようになった直接のきっかけが、1987年の元旦、ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮するこのコンサートに接したことだからだ。今でもこの録音を聴くと、母方の祖父母の家の小さな畳敷きの茶の間で、生中継の映像に見入っていた時の記憶がよみがえってくる。
このコンサートのフィナーレをヨハン・シュトラウス1世(以下「ヨハン1世」)の「ラデツキー行進曲」が飾ることは、言うまでもないことだろう。ただ、この曲の来歴はあまり知られていない。
1848年革命とヨハン・シュトラウス1世
「ラデツキー行進曲」は、ヨーロッパ中で革命運動が勃発した1848年に誕生した。当時、復古と勢力均衡を基調とするウィーン体制のもと、フランス革命の遺産たる自由主義とナショナリズムは抑圧されていた。しかし、これに反発する動きは絶えなかった。ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》で知られる七月革命(1830年)、『レ・ミゼラブル』の終盤を飾る六月暴動(1832年)などがその例である。そして1848年、2月にパリで発生した革命運動をきっかけに、ヨーロッパは大きく揺れた。
ハプスブルク帝国でも多くの都市で革命運動が起き、首都ウィーンでは3月に、知識人・学生・労働者らが体制変革と社会問題の解決を求めて蜂起した。宰相メッテルニヒは失脚し、イギリスに亡命する。ヨハン1世の長男のヨハン2世によれば、このとき父はひどく狼狽し、「時代の問題から遠ざかり、未来が彼の芸術にとってより好ましい時代をもたらしてくれるよう望んだ」という。
しかしヨハン1世は、「オーストリア国民軍行進曲」「学生軍団行進曲」「自由行進曲」—なおこの曲は、来年(2025年)のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの1曲目に演奏される予定である—を作曲し、革命側を支持する姿勢を見せた。そして、初演後まもなく出版された「オーストリア国民軍行進曲」の楽譜の表紙から、それまで誇らしげに掲げていた「帝室・王室宮廷舞踏会音楽監督」—「17年におよぶ至高の宮廷への奉仕」などを理由として宮廷に請願し、2年前に授けられた名誉職—の称号を外した。
ヨハン・シュトラウス1世:「自由行進曲」(2015年のニューイヤーコンサートより)
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