マリアン・フェイスフル~スウィンギングロンドンを舞台に歌に映画に異彩を放った、そのサヴァイヴァーとしての生き方
ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。
Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。
●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2025年4月号に掲載されたものです。
ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...
マリアンのために書かれた名曲「アズ・ティアズ・ゴー・バイ」
2025年1月に、78歳で亡くなったマリアン(マリアンヌはローマ字発音)・フェイスフルの音楽をすべて聴いているわけではありませんが、中には強烈に心に残っている作品があるのでここで取り上げようと思います。
音楽とは別に、彼女はひとりのサヴァイヴァーとして記録すべき人生を送ったのです。生まれは1946年、戦争が終わったばかりのロンドンのハンプステッドという上品なところです(ぼくが60年代に通った学校がある場所でもあります)。父は戦時中にスパイで、その後ロンドン大学で文学の教授、母はオーストリア系の貴族の子孫でしたが、マリアンが6歳のときに両親が離婚したため、身分にもかかわらずお金に恵まれていなかった母と一緒にロンドンの西に位置するレディングに移り、チャリティに支えられたカトリックの学校に通っていたのです。文学が好きで頭がよかったのに大学に進もうとせず、10代後半になる60年代にはロンドンの音楽シーンに興味を持ち、ときどきコーヒー・ハウスなどでフォーク・ソングを歌うこともありました。
1964年に当時17歳だったマリアンは、ローリング・ストーンズのためのパーティに行きます。そこで彼女の容姿にうっとりしたストーンズのマネジャー、アンドルー・オールダムに突然「君、歌えるの?」と話しかけられ、「はい」と答えると2週間後「2時にオリンピック・スタジオに来い」という電報が届きました。
「おっぱいの大きい天使に会った」と語ったオールダムからの依頼で、まだこれという曲を作っていなかったミック・ジャガーとキース・リチャーズはマリアンのために「アズ・ティアズ・ゴー・バイ」を書き下ろします。そしてマリアンのデビュー曲としてこれが大ヒットし、素朴な魅力を放つ歌とイギリス中の少年たちをときめかすルックスで彼女はたちまち落ち着きのあるアイドル的な存在となりました。
アイドルからホームレスまで毀誉褒貶の時代
その直後に、すでに妊娠中だったマリアンは後にジョン・レノンがオノ・ヨーコと出会うことになるインディカ・ギャラリーのオーナー、ジョン・ダンバーと結婚します。
しかし、息子ニコラスを生んだ後、ミック・ジャガーと同棲するために夫と別れ、ニコラスはマリアンの母に育てられることになったのです。マリアンの話によるとストーンズのメンバー3人と寝て、その中から選んだのがリード・ヴォーカルのミックだったそうです。
音楽誌だけでなく、一般のタブロイドなどでも常に「ネタ」とされていたミックとマリアンはスウィンギング・ロンドンの象徴的な存在でした。しかし、キース・リチャーズの家で開かれたパーティに警察が麻薬の捜索に現れると、毛皮のベッド・カヴァーだけをまとった裸のマリアンが見つかり、事実と嘘が入り交じったメディアの騒ぎが凄まじかったです。マリアン・フェイスフルのイメージといえばそれ以外がすべて吹っ飛ぶほど、といっても過言ではないと思います。
ロック・ミュージシャンにとっては「ワル」が勲章のようなものでも、子どもを持つ女性はまったく違った目で見られ、マリアンはこのトラウマのため自殺未遂もし、ミックと別れた後ヘロイン中毒に陥り、2年間ロンドンの路上でホームレスの生活を続けていました。そのころのことを当時は全然知りませんでした。
70年代前半に当時未発表だったアルバムを作ったり、アイルランドでヒットしたカントリー寄りの作品を出したりしたそうですが、79年にアイランド・レーベルから発売された「ブロークン・イングリッシュ」は青天の霹靂でした。音も激しく、パンク・ロックの影響を感じさせるところもあり(マリアンの恋人はヴァイブレイターズというバンドのベン・ブライアリーでした)、またマリアンの声はまるで別人に思ってしまうほど低くなって、彼女の苦労が如実に感じ取れるものでした。なかには汚い言葉を毒々しく吐き出す曲もあり、当時は正直なところ怖い印象があって聴く気が起きませんでした。
評価の高いアルバムや映画出演など幅広い活躍
その後80年代半ばに「トラブル・イン・マインド」という映画を見たら、マーク・アイシャムの寂しげなトランペットに乗って主題歌を歌うマリアンに衝撃を受けました。苦悩と希望が混ざったこの古いブルーズのそのまま生きた説得力に度肝を抜かれたのです。
その後、既成概念に束縛されないニューヨークのレコード・プロデューサー、ハル・ウィルナーと一緒に「ストレインジ・ウェザー」という傑作アルバムを出し、その中に40歳の人生経験で久しぶりに歌った「アズ・ティアズ・ゴー・バイ」が素晴らしいです。麻薬を完全に絶ったマリアンは急にこの曲の真価に気づいたと言うのです。
1990年に同じコンビで作った更にすごいライヴ・アルバム、「ブレイジング・アウェイ」に収録されているジョン・レノンの「ワーキング・クラス・ヒーロー」のすごさに、ぼくはマリアンの歌で聴いて初めて気づきました。本気で「ジョンの魂」に取り組んだのはそれからだったので、彼女には頭が上がりません。
その後30年のあいだ、評価の高いアルバム、映画の出演など幅広い活動が続きましたが、C型肝炎や乳がんに悩まされ、2020年にコロナウイルスに倒れたマリアンはしばらく昏睡状態に陥ったのです。復帰はしたものの、声はさらにかすれてしまったため、もう歌うことは無理になって、2021年に子どものころから好きだった詩を朗読する最後のアルバム「She Walks In Beauty」を残しました。
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