
ジミ:ヘンドリックスの夢のスタジオを描いたムービー『エレクトリック・レディスタジオ:ヴィジョン……』

ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。
●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2025年11月号に掲載されたものです。

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...
デビューからの創作意欲、そしてスタジオ完成へ
ジミ・ヘンドリックスが亡くなってから今年の9月で55年が経ちました。最近でも未発表音源が市場に出ることがありますが、やはり最良のものは生前にすでに発表されていたと思います。それにしてもヘンドリックスの活動時期は1967年の春に発売されたデビュー・アルバム『Are You Experienced』からわずか3年半しかなかったのです。67年末の『Axis: Bold As Love』と68年の2枚組の大作『Electric Ladyland』だけで大スターになりましたが、創作意欲が凄まじく、常にさまざまなミュージシャンとのジャム・セッションを重ねていました。
ジミ・ヘンドリックス『Axis: Bold As Love』
ジミ・ヘンドリックス『Electric Ladyland』
1969年から70年にかけて彼のためにレコーディング・スタジオ Electric Ladyがニューヨークのグレニッチ・ヴィレッジで建設されました。
それに関するドキュメンタリー映画が2024年に製作されていますが、日本でも先日、1970年7月にヘンドリックスが出演した50分ほどのライヴと共に、『エレクトリック・レディ・スタジオ:ヴィジョン&アトランタ・ポップ・フェスティヴァル1970』として公開されました。
このスタジオが出来上がるまでの話は紆余曲折がいくつもあって、完成したこと自体が奇跡のように思えてきます。ヘンドリックスは最初はスタジオではなく、ジャムを自由に楽しむために自分のナイトクラブが欲しかったのです。破産した店の物件が見つかったあと、彼が何度か行ったことがあったソーホー(まだ流行る前の汚い町だった頃)のクラブが気に入っていたので、そのデザインを担当したジョン・ストーリクという若者にクラブのデザインを依頼したのですが、ストーリクのデザインができたころに計画が急変。デビューからずっとヘンドリックスの録音を担当していたエンジニアのエディ・クレイマーはジミのスタジオ代が天文学的に高くかかっていることで頭を抱えていて、クラブの代わりに最先端のスタジオを造ったほうが得策だと説得したのです。ジョン・ストーリクは建築を学んでいたものの、レコーディング・スタジオについての知識はなく、一旦途方に暮れましたが、結局エディ・クレイマーとともに時間をかけてプランを練って行なったのです。
自宅のような空間に~時代の先駆けとなった録音スタジオ
1960年代のレコーディング・スタジオというと殺風景なところが多く、ミュージシャンがくつろぐ場所という発想はまだありませんでした。副調整室はエンジニアとプロデューサーのための場所で、録音したトラックの再生をミュージシャンが一緒に聴くこともまだ一般的ではなかったというのです。そういう事務的なやり方では当然ミュージシャンは緊張するし、スタジオの環境が嫌いだという人が多かったです。そこでエディ・クレイマーとジョン・ストーリクはジミの希望をすべて取り入れて、彼がまるで自分の家のように楽に使える空間にしようと工夫を凝らしました。たくさんの色を出せる隠し照明はその時代では画期的なものでしたが、ジミが音を色として感じる共感覚の持ち主だったようで、彼にとって極楽の環境だったに違いありません。
しかし、地獄の話もいくつかあります。最初に予定されていた調整卓をつくった会社が突然破産宣告をして、その時点で収めていた機材は中途半端だったのでスタッフが慌てて部品をかっさらって自分で組み立てる作業に悩まされることになったわけです。また建設がある程度進んだ段階で、床の下にあると誰も知らなかった水道管が破裂し、スタジオ中が水浸しになってしまいました。床をはがして、水道管を直してからもう一度最初からやり直し……。
エディ・クレイマーのほか、彼が雇ったスタッフの人たちも皆、この映画で当時のことを語ります。エディが他の仕事で出くわしたドラマーやギタリストが音に敏感だと感じたらエンジニアとしてこの計画に加わらないかと誘ったり、あるいはエレベーターに乗ってきたルックスのいい女性をスタジオのマネジャーに招いたり、意外な方法で結果的にいいチームができていきました。
しかし、スタッフがいると給料を払わなければならず、まだ収入がないので作業が止まることもあり、そうするとジミがライヴを再開しお金を稼いで、かなりハラハラすることもあったようです。
1970年7月アトランタのコンサートも併映
最終的にスタジオが完成したのは1970年8月下旬。次作のアルバム『The Cry Of Love』のための録音を開始した直後に、ジミはヘッドライナーを務めるイギリスのワイト島のフェスに出かけました。その約3週後に彼は27歳で亡くなっていたのです。この念願のスタジオをほんの数回しか使うことしかできなかったのです。ジミの突然の死で関係者は全員大ショックでしたが、スタジオの事業は続けなければならない。その後スティーヴィ・ワンダーをはじめ、さまざまなアーティストが Electric Ladyで録音し、多少の改造を経た現在、まだ機能しています。エディ・クレイマーは半世紀以上経った今も、このスタジオに入るたびにジミの存在を感じると言います。
ジミ・ヘンドリックス『The Cry Of Love』
このドキュメンタリーとセットになっている「アトランタ・ポップ・フェスティヴァル」は1970年7月のライヴで、ベースのビリー・コックスとドラムズのミッチュ・ミチェルと3人でヘンドリックスは素晴らしい演奏を繰り広げます。新曲も若干ありますが、当時でもデビュー時の「ヘイ・ジョー」、そのシングルのB面だった「ストーン・フリー」、「パープル・ヘイズ」などを演奏し続けているのが印象に残ります。





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