ラフマニノフの食事に関するエピソードが残っています。1913年1月から4月までのローマ滞在によって「西欧化」したラフマニノフは、モスクワに戻ってもイタリア人のように振る舞い、夕食に招いた友人たちをイタリア風の食事でもてなしたそうです。
イタリアで出されたパスタ料理を食べて「学習」し、モスクワの地でローマ風パスタの再現に挑戦したのでした。この食描写については、夕食会に招かれたアルメニア系詩人のマリエッタ・シャギニャン(1888~1982)が克明に記しています。
どうやってこのパスタを料理したかということが話題に上ると、ラフマニノフは、オリーブ油ではなく必ず豚の脂身を使わなくてはならず、レンガ色にするために濃いトマトソースと、十分に熟したチーズを使うのだと、嬉しそうに説明した。
(『ラフマニノフの想い出』)
ところでこのローマ風パスタは、具体的にどんな料理だったのでしょうか。シャギニャンの記録にヒントがあります。豚の脂身、濃いトマトソース、熟したチーズを使ったパスタとは何か。実は、それが19世紀後半から20世紀初頭にかけてローマで人気を博したマトリチャーナ(ローマ方言、イタリア語でアマトリチャーナ)です。
ラフマニノフがロシアで最初に注目され始めたころ、1894年にミラノで結成されたイタリア・ツーリング・クラブという団体が刊行した『イタリア美食案内Guida Gastronomica d’Italia』(1931年ミラノ刊)という美食ガイド冊子には、ローマとラツィオ地方の章でこのマトリチャーナについて言及されています。
しかしながら、これらに劣らずスパゲッティ類もまた話題に事欠かない。ローマでは侮りがたい量のスパゲッティが消費されているのだ。まずはスパゲッティ・アッラ・マトリチャーナ alla matricianaがある。その名はサビーナ地方[=ローマから北東に行った丘陵地帯、今日でいうラツィオ(ローマのある州)とアブルッツォ・ウンブリア両州にまたがるあたりの歴史的な地域名で、古代サビニ人たちがいた場所]の小村アマトリーチェに由来するが、ともあれこの料理は代表的なローマの地方料理となっている。スパゲッティはタマネギ、豚肉のグァンチャーレ[=頬脂で作る保存食、ラルド*やパンチェッタのように薄切りにしても食す]、ラード、細かく切ったトマト、胡椒からなるソースをかけ、細かく挽いたペコリーノチーズをかけて食す。
*ラルド:豚の背脂の塩漬け
(イタリア・ツーリング・クラブ『イタリア美食案内』)
貴重な20世紀前半のマトリチャーナの紹介文と言ってよいでしょう。「オリーブ油ではなく必ず豚の脂身」がポイントだと、ラフマニノフが説明するのが頷ける料理です。
ラフマニノフは、パスタでは大好物のこのマトリチャーナ以外は食べようとしなかったと、妻のナターリヤが証言するほどでした。愛するロシアでの友人たちとの語らい。心を許した人だけに見せるラフマニノフの笑顔がそこにはありました。
【材料】(4人分)
スパゲッティ 300g
豚の脂身 100g
※グァンチャーレ(豚頬肉の塩漬け)がよいが、ない場合はパンチェッタ、ベーコン等で代用可
ラード 15g
ホールトマト 1缶分(400g)
タマネギ 1個
にんにく 1片
ペコリーノ・ロマーノチーズ 50g
イタリアンパセリ 適量
塩 適量
コショウ 適量
【作り方】
1. 豚の脂身を1センチ幅に切り、タマネギとにんにくをみじん切りにする。
2. フライパンに1.の豚の脂身とラードを入れ、中火で5分炒める。
3. 2.の脂身を取り出し、1.のみじん切りしたタマネギとにんにくをフライパンに入れて炒める。
4. 3.のフライパンにホールトマトを入れて、木べらで細かく刻むようにつぶして混ぜる。
5. 鍋で湯を沸かし、塩を加えてスパゲッティを規定時間ゆでる。
6. 5.のスパゲッティを4.に加え、絡める。
7. 皿に盛り付け、すりおろしたペコリーノ・ロマーノチーズとイタリアンパセリを全体にふりかけて、塩とコショウで味付けして完成。
Point
* スパゲッティのゆで時間は、市販のスパゲッティの袋に記載されているゆで時間に準拠して構わない。
* チーズにペコリーノ・ロマーノを使用したが、輸入食材店などにない場合はパルメザンチーズで代用可。
* 豚の脂身はグァンチャーレがベストだが、入手が少々難しいので、「西欧化」したラフマニノフ気分を味わいたければパンチェッタ、手っ取り早く料理を作りたい方はベーコンで作るのがよいだろう。
* ラフマニノフの「濃いトマトソース」の記述からホールトマトを使ったが、オプションとしてトマトピューレもそこに加えてトマトソースを濃くしていくのもよい。また1931年のマトリチャーナを目指すなら、新鮮なトマトを「細かく切っ」て使ってもよい。