読みもの
2023.09.24
音メシ!作曲家の食卓#9

ヘンデルがオペラ作曲のお供に味わった 流行のホットチョコレート

歴史料理研究家の遠藤雅司さんが、作曲家をその食卓からクローズアップ。毎回、実際に再現したレシピもご紹介します。人間の根源的な欲求=食のエピソードからは、大作曲家の人間くさい一面が見られるかも!?

遠藤雅司(音食紀行)
遠藤雅司(音食紀行)

歴史料理研究家。国際基督教大学教養学部人文科学科音楽専攻卒。2013年から世界各国の歴史料理を再現するプロジェクト「音食紀行」をスタートさせ、実食イベントやレストラン...

イラストー駿高泰子

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ドイツ出身のヘンデルがイギリスで成功するまで

今回紹介するのはバロック期を代表する作曲家の一人、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルです。1685年、ハレに生まれた彼は、町のギムナージウム(中等教育機関)に通い、ドイツ語、ラテン語、算数、論理学等、多岐にわたって学びました。その中でいち早く音楽への興味を示しましたが、父親が楽器の演奏を禁じたため、ヘンデルは一家が寝静まったのを見計らい、屋根裏部屋でクラヴィコードの練習をしました。

1702年2月にハレ大学に入学した翌月、ハレ大聖堂のオルガニストに任命されます。この頃、オペラに関心を持ち始め、4歳年上のテレマンに出会う等の刺激を受けた彼は、翌1703年に早くも大学を中退。当時、ドイツでもっともオペラが盛んなハンブルクに向かいます。

ハンブルクでは数歳年上の作曲家マッテゾンと意気投合し、後に音楽著述と作曲で有名になったこの若き音楽家とともに、鵞鳥市広場のオペラハウスで演奏に加わりました。オペラ作曲の機会を得たのもこの時で、《アルミーラ》《幸福なフロリンド》《変容のダフネ》等を発表しました。1706年、メディチ家のフェルディナンドの要望に応えてイタリアに渡り、3年半の滞在で多くの作曲家と交流。イタリア・オペラの様式を身につけます。

1710年、ハノーファーの宮廷楽長に就任後、多くの器楽曲を作り、満を持して英国ロンドンへと向かいました。当時のロンドンは人口がおよそ60万人の大都会で、経済も発展期でした。音楽文化活動も活発で、イタリア・オペラの需要もありました。居心地の良い環境に身を置いたヘンデルは、オペラを上演し、成功させます。その力量を認めた英国王室は、1723年に王室礼拝堂作曲家に任命。オペラ作曲家としての最盛期を迎え、大衆からも王室からも名実共に英国一と認められたヘンデルは、英国に帰化し永住を図ったのでした。 

余談ですが、今年2023年の英国王室戴冠式でもヘンデルの「戴冠式アンセム」が演奏されていたのは印象的でした。1727年、ジョージ2世の戴冠式に寄せて書かれた作品は、数百年の時を経て英国王室で愛され続けていると言ってよいでしょう。ヘンデルが王室でその才能を認められ、愛された証左だと感じられます。

ヘンデルが1710年に向かったころのロンドン
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大食漢で大の食通だったヘンデル

ヘンデルは肖像画の通り、体つきが大きく、大食漢でした。実際、イタリアにおけるルスポーリ侯爵の支払い記録から、ヘンデルとお連れの食費が、ある楽士の年俸のおよそ4倍だったという驚きの事実もあります。

たいへんな食通で知られ、エピソードには事欠きません。ある日、演奏家たちと食事中だったヘンデルが「思いついた!」と叫ぶと、一同は音楽のアイデアが消えないようにと離席を許しました。その回数が頻繁だったので、演奏家の一人がヘンデルの部屋を覗くと、ブルゴーニュ・ワインを独り占めして飲んでいたそうです。また、「ポート・ワイン12ガロン、フランスワイン12本」と記したヘンデルの直筆メモも残されています。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)
アリア〈オンブラ・マイ・フ〉が有名な《セルセ》や《ジューリオ・チェーザレ》などのオペラ、《メサイア》などのオラトリオ、管弦楽曲《水上の音楽》《王宮の花火》などがよく知られている

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