読みもの
2023.11.29
音メシ!作曲家の食卓#11

シューベルトが親友と一度に6個も平らげた、三日月型パン「キッフェルン」

歴史料理研究家の遠藤雅司さんが、作曲家をその食卓からクローズアップ。毎回、実際に再現したレシピもご紹介します。人間の根源的な欲求=食のエピソードからは、大作曲家の人間くさい一面が見られるかも!?

遠藤雅司(音食紀行)
遠藤雅司(音食紀行)

歴史料理研究家。国際基督教大学教養学部人文科学科音楽専攻卒。2013年から世界各国の歴史料理を再現するプロジェクト「音食紀行」をスタートさせ、実食イベントやレストラン...

イラストー駿高泰子

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シューベルトの才能を早くから見抜いたサリエーリ

今回紹介する作曲家は、フランツ・ペーター・シューベルトです。

1797年1月31日、ウィーン郊外の町ヒンメルプフォルトグルントで新たな才能が産声をあげました。19世紀初頭のウィーンに冠たる作曲家、フランツ・ペーター・シューベルトです。モラヴィア(現チェコ東部)出身の父、フランツ・テオドールとシュレジア(現ポーランド南西部)出身の母、エリーザベトの第12子として生まれました。フランツ・テオドールは校長の免許を取得し、私塾的に経営していた学校の校長でした。

シューベルトは、1808年帝室宮廷礼拝堂の少年合唱団の試験に合格し、シュタット・コンヴィクトという学生寮の寄宿生となって、ギムナージウム(中等教育機関)で基礎的教育を受けました。そして、宮廷礼拝堂聖歌隊員には歌唱、ピアノ、ヴァイオリンが課されていましたが、シューベルトはそれらの課目で常に「優」を取りました。このころに創作活動も開始します。コンヴィクトの寮生オーケストラのための管弦楽曲やドイツ語の歌曲でした。

やがて、シューベルトは週に2度のサリエーリの自宅レッスンを受けられるようになりました。これは異例のことで、サリエーリがコンヴィクト側に「寮の外出禁止規則を特例で免除して自身の家でのレッスンを行ないたい」と要請したことで実現したものです。それほどまでにシューベルトの才能をサリエーリは早くから見抜いていたのです。

シューベルトが遺したメモには「ウィーンの帝室王室宮廷楽師長サリエーリ氏の生徒」と記されたものがあります。シューベルトはサリエーリからのレッスンに心からの感謝を示し、その実直な気持ちがメモにも遺されています。

シューベルトの声域は広く、バリトンやテノール、音域の広いファルセットの声も出せました。シューベルトの友人であり、サリエーリに師事した作曲家アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは以下のように語っています。

サリエーリの家で宮廷音楽図書館の古い総譜から初見で歌ったりする場合、女性がひとりもいなくて困った時など、アルトやソプラノのパートまで彼(シューベルト)が引き受けるのでした。

アンゼルム・ヒュッテンブレンナー(1794-1868):作曲家。同じサリエーリ門下で、シューベルトと親しい間柄だった

恩師サリエーリからの卒業

サリエーリは、シューベルトの音楽の才能を高く評価し、「あの子は何でもできます。オペラでも、歌曲でも、四重奏曲でも、交響曲でも、作曲したいと思ったものは何でも作曲します」と語っています。師はレッスン後に、シューベルトを下宿先まで散歩がてら見送りに行き、途中でアイスクリームをプレゼントするほど目にかけていたのです。

そのため、シューベルトが1813年11月23日にコンヴィクトを退寮した後も、サリエーリはシューベルトに特別に目をかけ引き立てて、毎日作曲のレッスンをしています。

その後、17歳にしてドイツ語歌曲の作曲家として自身の進む道を切り開き始めたシューベルト。しかし、それは師サリエーリが思い描く立派なイタリア・オペラの作曲家になるのとは違う、別の新たな道を歩んでいくことを意味していました。

サリエーリは、イタリア語のオペラの専門家として、己の持てる能力をシューベルトに惜しみなく注いでいきました。サリエーリは、昔のイタリアの楽匠たちの譜面を勉強のために与え、シューベルトも恩師からの期待に応えるべく、情熱と愛情をもって課題に取り組んでいきます。しかし、同時期に彼が見つけ出したモーツァルトのオペラや、とくに夢中になったベートーヴェンの諸作品がもたらす満足感を、師が教材として示したイタリアのオペラから見出すことはできなかったのです。

サリエーリにとっては、作曲する詩や台本にわざわざドイツ語のものを使うことなど理解しがたく、弟子にはその点を何度も忠告しました。しかし結局、その忠告は届きませんでした。シューベルトは、自身の内面から湧き上がる大きな声に耳を傾け導かれるまま、ついにはサリエーリの下から巣立つこととなります。

そんなシューベルトですが、サリエーリには常に感謝の気持ちを持ち続け、師の傑作オペラの中でもとくに《ダナオスの娘たち》と《オルムスの王アクスール》に深い崇敬の念を抱いていたことがわかっています。

友への信頼を示す喫茶店でのエピソード

シューベルトが友人へ信頼を寄せたことが感じられる逸話がありますのでここに紹介します。喜劇作家エードゥアルト・フォン・バウエルンフェルトの証言です。

ある時、私は午後の早い時間にケルントナートーア劇場近くの喫茶店に入り、「メランジェ」を注文し、それと一緒にキッフェルンを6個平らげたことがあります。まもなくシューベルトもやってきて、私と同様に注文し、同様に平らげました。

バウエルンフェルトは1822年にシューベルトと知り合いましたが、親しく付き合うようになったのは、このエピソードの年である1825年でした。2人は馬が合ったのでしょう。遅れてやってきたシューベルトがバウエルンフェルトの注文したものを見て、自分も同じものをとろうとしたことは、正に信頼の証と言えるでしょう。

1825年に描かれたシューベルトの水彩画
エードゥアルト・フォン・バウエルンフェルト(1802~1890):劇作家。シューベルトと親しく付き合った

キッフェルンの三日月形はオスマン帝国の旗印

ここでは、キッフェルンというオーストリアの料理を取り上げてみます。キプフェルとも呼ばれており、日本ではあまり馴染みのない単語ですが、クロワッサンの原型と言われれば一気に身近なモノに感じられるかもしれません。そう、ドイツ語で「角状の、三日月形の」といった意味の語に由来する呼称がキッフェルンで、フランス語のそれがクロワッサンなのです。つまり、焼く前に丸めて三日月形にした伝統的なロールパンが、キッフェルンということになります。

1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲の際、オスマン帝国による城壁突破の奇襲を察知したウィーンのパン屋がこれを政府に伝えて未然に防ぎ、オスマン軍はウィーンから退散することになりました。そのパン屋が敵方オスマン軍の帝国旗に掲げられている三日月を模したパンを作る権利を得、作ったのがキッフェルンの始まりと言われています。

1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲の様子

こうした逸話は各地にあり、ハンガリーでは1686年にキリスト教軍がブダ(現在のブダペストの西岸にあたる城塞地域)をオスマン帝国の占領から解放したとき、町のパン屋が三日月形に作られたロールパンを販売して勝利を祝ったとされています。

オスマン帝国の国旗

当時の料理書にある惣菜風のキッフェルン

ウィーンのアルンシュタイン男爵に仕えていた料理人テレジア・バラウフ(ムック)がシューベルトの活動していた時代に刊行した料理書(初版1810年、本連載のベートーヴェン編にも登場)に、キッフェルンのレシピがいくつか紹介されています。逸話ではコーヒーと共に食すクロワッサン風のものが紹介されていますが、これは当の料理書に「湾曲型キッフェル」として紹介されているもの。

しかしこの本をよく読んでいくと、他にも魚などを入れて作る惣菜風のキッフェルンが何種か説明されていることに気づきます。今回は一風変わったレシピを取り上げてみましょう。

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160. カプチン修道士風キッフェルン

まず皮の生地を作っておく。水を使い、卵1個を加えて念入りに練ること。カワカマスか小ぶりのチョウザメのグリルを切り分けておく。

 

卵1個の白身と黄身をよく溶き合わせ、バター1片をそこに混ぜ、砕いたパンを適宜加え、これを細かく切り分けた魚と和え、塩とメースをそこに加える。

 

生地を四角く切り、それぞれ中央に魚を置き、卵黄を溶いたものを隅に塗って巻き、三日月の形に整えて牛乳にくぐらせたのち、成形した生地をボウルの内側の曲線を使って環の形にする。

 

牛乳を沸かし、生地に卵液をまぶした上から注ぎかけ、オーブンの上と下に火を点け、生地の上にバターを塗って、よく色づいてくるまで焼いてから食卓に出す。

 

変化をつけるなら、適量のクレプスブッター[=ザリガニ(ロブスター)の味噌部分]を生地の下に敷き、生地の上にはバターの代わりにクレプスブッターを塗ってもよい。詰め物には四角く切ったザリガニ(ロブスター)の身を入れてもよい。

三日月という意味の「キッフェルン」らしさが感じられるのは、「成形した生地をボウルの内側の曲線を使って環の形にする」というところでしょうか。

実際に作ってみると、お菓子やパンとは一線を画したものができ上がりました。当時、このようなキッフェルンと名前のつく料理があったということも理解しつつ、今回はこのレシピには記されていない薄力粉を加え、白身魚はエッセンスとして加えてみます。惣菜風キッフェルンといったところでしょうが、当時シューベルトがこうしたキッフェルンも食す機会があったとすれば、はたして6個も立て続けに平らげられたでしょうか。

テレジア・バラウフの料理書には砂糖を使った「湾曲型キッフェルン」のレシピも載っていますが、今回は200年前の料理世界と現在の違いを際立たせるため、あえて惣菜風のキッフェルンに光を当ててみました。

史実としての証言では、キッフェルン6個セットをメランジェと一緒に味わったバウエルンフェルトとシューベルト。2人のテーブルには計12個のキッフェルンが並べられ、メランジェを片手に楽しい談議が繰り広げられたことは、想像に難くありません。

【音メシ!シューベルトの食卓】1820年代惣菜風キッフェルン

材料( 12個分)

薄力粉 200g

フュメ・ド・ポワソン(魚のだし)  大さじ1

白身魚(フュメ・ド・ポワソン用) 1/4切れ(20g)

白身魚(スズキなど) 1/4切れ(20g)

牛乳  大さじ1

卵        1個

バター 15g

砕いたパン  10g

塩            1つまみ

メース  1つまみ

 

作り方

1.   フュメ・ド・ポワソンを作る。鍋に分量外の水を入れて、沸騰したら白身魚1/4切れを入れて弱火で10分ゆでる。

2.   スズキなどの白身魚1/4切れをみじん切りにし、200℃に予熱したオーブンで10分焼く。

3.    ボウルに100gの薄力粉、1. のフュメ・ド・ポワソン大さじ1、溶き卵1個、カリカリに焼いて砕いたパンのかけら10gを入れて混ぜ合わせる。

4.    3.2.のスズキ、牛乳大さじ1、溶かしたバター15g、塩1つまみ、メース1つまみを加え、残りの薄力粉100gを徐々に加えてさらに混ぜ合わせる。

5.    一塊になったら、12個に分割してそれぞれ球状にする。

6.    5.を棒状に伸ばしてから、天板に載せて三日月形に成形する。

7.    6. を分量外の牛乳を加えた卵液に浸したら、再度天板に載せて、200℃に予熱したオーブンで20分焼き上げて完成。

 

ポイント

*分量外の食材としては、水ならびに7.の卵液用の卵黄と牛乳が挙げられる。

遠藤雅司(音食紀行)
遠藤雅司(音食紀行)

歴史料理研究家。国際基督教大学教養学部人文科学科音楽専攻卒。2013年から世界各国の歴史料理を再現するプロジェクト「音食紀行」をスタートさせ、実食イベントやレストラン...

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