続 ワグネリアンのバイロイト案内「ワーグナーとの逢瀬を楽しむ観劇前の過ごし方」
バイロイト詣でが人生最大のたのしみという新野見卓也さんによる「ワグネリアンのバイロイト案内」。初回は、ワーグナー自身の発案によるバイロイト祝祭劇場の鳥肌ものの音響や、暑さとお尻の痛さに耐え続ける鑑賞など、行った人にしかわからない音楽祭の真実を教えてもらいました。続編では、命がけの(?)鑑賞までの半日、ワグネリアンが英気を養うのにぴったりな、ワーグナーその人に近づけるおすすめスポットを教えてもらいます。
国際基督教大学(ICU)卒業、一橋大学大学院言語社会研究科修了後、リスト音楽院(ブダペスト)に留学。現在ハンガリー国立バレエ学校でピアニストを務めつつ、音楽批評家とし...
おお、わが心のふるさとバイロイト。ああ、はやく帰りたい。あの音響、あの演奏、あの街に……。
バイロイト音楽祭では上演時間が短い(が休憩がないため倒れる人の多い)《さまよえるオランダ人》と《ラインの黄金》は18時、他の演目は16時に開演する。それまでの半日、ワグネリアンたちは体力勝負の観劇に備えてゆったりとくつろぐ、チケット代を工面するためにちまちまと仕事をする(=筆者)など思い思いに過ごす。
街の至るところにワーグナーの存在感
もちろん、夏の音楽祭といえば観光もたのしみのひとつだ。バイロイトでも街の散策は心躍る。ワーグナーの生涯や作品を紹介するプレートや小さなワーグナー像たちが、街のあちこちに見つかる。また通りや店の名前もワーグナーにちなんだものが多く、至るところにワーグナーを感じることができる。
思い出すだけでわくわくしてくる。だがバイロイトについていかに愛を込めて語ろうとも、理解を得られるとは限らない。実際に冷めた反応に出会うこともしばしば。たとえば……
「でも、田舎なんでしょう?」
……はい、田舎です。バイロイトは、たとえばザルツブルクやルツェルンのように、風光明媚な観光地でないことはたしかだ。
とはいえ祝祭劇場以外の名所旧跡もあり、エルミタージュや9月にバロック音楽祭が開催される辺境伯オペラハウスなどは、一度は訪れる価値がある。
ワーグナーの私邸の名にビビッ
だがせっかくはるばるバイロイトに来たのだから、身も心もワーグナーに浸りきりたい! ワーグナーに溺れたい! そんなワグネリアンたちは、旧市街を抜けた先、庭園に隣接する一画に佇む館へと吸い寄せられる。現在リヒャルト・ワーグナー博物館として一般公開されているその建物は、もとはワーグナーその人が居を構えた私邸だ。その名もヴァーンフリート Wahnfried 荘。
ヴァーンフリート! ワグネリアンであればこの名前だけでビビッときてしまう。「ヴァーンWahn=迷い・妄想」といえば、《マイスタージンガー》の重要なモチーフだ。頭のなかでハンス・ザックスが歌い出す。「Wahn! Wahn! Überall Wahn! 迷い! 迷い! どこも迷いだらけだ!」
楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第3幕第1場「Wahn! Wahn! Überall Wahn! 迷い! 迷い! どこも迷いだらけだ!」
ファサードに埋め込まれたプレートにはこうある。「ここに私の迷妄Wahnが安らぎFriedenを見いだした/ヴァーンフリート/私はこう名づけよう」。
ワーグナー研究の一大拠点で時を忘れる
ワーグナーの人生はまさに波瀾万丈だった。当局や借金取りから逃げ回り、偽のパスポートで国境を越え、愛人の夫の持ち家に転がり込む。つねに追われる立場にいたこの作曲家にとって、この邸宅は文字通り安らぎを見いだせる場所であったろう。
1874年に移り住んだこの住処では、《神々の黄昏》や《パルジファル》が作曲され、バイロイト音楽祭の準備のために名だたる音楽家たちによるリハーサルが行なわれた。まさにワーグナーの音楽が生まれた歴史的な場所が、博物館となっているのだ。
その展示品はスケッチや直筆譜、手紙の類いはもちろん、蔵書や日用品等多岐にわたる。ここにはワーグナーにかんするあらゆる資料が収蔵されており、ワーグナー研究の一大拠点となっている(コレクションはオンラインで閲覧可能)。
また敷地内の別館ではバイロイト音楽祭で実際に用いられた装置や衣装を見ることができる。「この衣装にはあの名歌手の汗が染み込んでいるのだなぁ」などと歌声を脳内再生しながら眺めていると時間を忘れてしまう。
ちなみに私のお気に入りは、かつて祝祭劇場で使用されていた椅子と、なんといっても直筆譜の数々だ。そこには楽匠の想像力が形となった瞬間が刻まれている。
そして館内を巡った後は、裏手に回ろう。蔦に縁取られた墓石の下には偉大な才能が眠っている。墓前に花を供するも、額ずくも、感涙に咽ぶもよし。
知られざるピアノ工房の名にまたもやビビッ
さてバイロイトにはもうひとつ、ワーグナーその人に一歩近づくことができる、しかしあまり知られていない穴場的なスポットがある。シュタイングレーバー社のピアノ工房だ。
同社はリストやワーグナーに信頼され、バイロイト音楽祭にもピアノを供給したことで知られるドイツを代表するピアノ・メーカーである。
ほう、シュタイングレーバー。ふむふむ。たしかにピアノ・マニアたちを別にすれば、日本での知名度はけっして高いとはいえない。だがワグネリアンならその名前にまたもやビビッとくるのではなかろうか。
そう、シュタイングレーバー社は、《パルジファル》で鳴り響くあの「ドーソーラーミー」の鐘(グロッケンクラヴィーア)を製造した工房なのだ。
じつは同工房では音楽祭の期間中、公演のない日に見学ツアーを開催している。ツアーでは「え、そんなところまで見せていいの?」というくらい、その独自のピアノ製造の過程をつぶさに観察できる。
だがワグネリアンにとってのハイライトは、これまで同社が製造してきた歴史的ピアノが並ぶサロンだ。そこにはなんと、ワーグナー自身が作曲に用いていたピアノが展示されている。しかも、参加者は実際に試奏できるのだ。これがワーグナーが聴いていた音!!
そしてもちろん、ツアー内ではパルジファル・ベルにも触れることができる。一定のリズムと音量を保ちつつ演奏するのは、なかなかに難しい。一人前のベル職人になるには修行が必要そうだ。
ワーグナーの足跡に触れ、感動を新たにし、さて機は熟した。その偉業を身をもって体験すべく、われわれは緑の丘を登る。暑くても、お尻が痛くても、焦がれてやまないあの劇場へと。
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