読みもの
2018.11.17
アートを聴く! Vol.8「ピエール・ボナール展」

聴こえてくるのはプライベートな音。ボナールが生涯追求した「親密さ」

12月17日まで国立新美術館で開催中の「ボナール展」。ボナールは、極めて親密な空間を描くことで絵画芸術に新風を吹き込んだ。裸婦の私的な空間を描いた2枚の絵からは、どんな音が聴こえてくるだろうか? アートライター、藤田令伊さんが、ボナールの音世界へご案内します。

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藤田令伊
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藤田令伊 アートライター

アートライター、大正大学非常勤講師。単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる...

メインビジュアル:《化粧室 あるいは バラ色の化粧室》1914-21年 油彩、カンヴァス オルセー美術館 © RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

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女性の息遣いと水音が聴こえてくる《浴盤にしゃがむ裸婦》

本連載では美術作品にさまざまな音楽や音を聴いてきたが、またちょっと違う音が聴こえてくる作品をご紹介しよう。

それは、六本木の国立新美術館で開催中の「ピエール・ボナール展」(12月17日まで)に出品されている。ご存じの人も多いかと思うが、ボナールは19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスで活躍した画家である。若き日に見た日本の浮世絵に大きな刺激を受け、他の画家たちにもましてジャポニスムの洗礼を浴びている。

ボナールは「ナビ派」というグループに属していた。ほかにモーリス・ドニやフェリックス・ヴァロットン、エドゥアール・ヴュイヤールらがいる。ナビ派という名称は、印象派のように他人からそう呼ばれるようになったのではなく、自分たち自身で名付けたもので、「ナビ」とはヘブライ語で「預言者」の意。ボナールらは、自分たちは新しい芸術を預かった者なのだという自負を抱いて作品制作に励んだ。

では、ボナールが追求したのはどういう芸術だったのだろうか。

ピエール・ボナール《浴盤にしゃがむ裸婦》1918年 油彩、カンヴァス オルセー美術館
© Musée d'Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF

これは、ボナールの《浴盤にしゃがむ裸婦》という作品である。どこかの一室で、裸の若い女性が行水しようとしているらしく、浴盤なるものに湯あるいは水がいましも注がれようとしている場面が描かれている。女性は早くも全裸で、やや奇妙なポーズを見せている。右の膝を床に着けて体重の多くを支え、左足で体が安定するように補助している。左足は安定を求めてか、横へと突き出し、膝のところを直角に曲げ、足元はなぜか爪先立ちしている。そのため、陰部が恥ずかしげもなく開けられた格好となっている。

聴こえてくる音はといえば、じょぼじょぼと水を注ぐ何の変哲もない音だけで、“色気”のある音はまったく聴こえてこない。ほかにあるとすれば、水差しが浴盤に当たったときのカタンという音や、女性が体を動かしたときに発せられる微かな音、あるいは女性の息遣いぐらいのものであろうか。それらはどこまでもプライベートな音であり、極端なほど親密な音世界とでもいうほかないものである。

これまで描かれたことのなかった、私的な空間に注目したボナール

もう一枚、《化粧室 あるいは バラ色の化粧室》も同様である。こちらは湯上がりらしく、鏡の前で女性が裸身を拭っているところのようである。やはり、布が女性の身体を擦るわずかな音しか聞こえてこない。ごくごく私的な場面で、見る者はまるで盗み見でもしているかのような気分に襲われる。

《化粧室 あるいは バラ色の化粧室》1914-21年 油彩、カンヴァス オルセー美術館 © RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ともあれ、これらの絵に満ちているのは、とびきりの親密感である。それはそうであろう。ここで繰り広げられているのは、戸外(つまりパブリックな空間)ではなく誰かのプライベートな部屋のなかでの営みであり、何も飾るところのない女性の振る舞いは、おおよそ他人に見られることを意識したものではないからだ。もし、このシーンを見るのが許されるとしたら、それは余程心を許したごく近しい人だけである。ボナールは、この女性にとってそういう存在だったということだ。

思えば、こういう絵はそれまでの美術史上になかったのではないか。伝統的な宗教画や神話画とはまったく趣が異なるのはいうまでもなく、同じ都市生活を題材にしたということではドガなんかもそういえるが、ドガの場合、パブで酒を飲んでいる男女やバレエをしている女性たちといったように、あくまでもパブリックな場での光景をもっぱら描いている。

それに比べて、ボナールが描くのはきわめつきの私的空間だ。“ひそやか度”が一次元違う。これに匹敵するのはゴヤの《裸のマハ》ぐらいであろうか。いずれにせよ、この超親密さが絵画芸術に新たな一つの風を送り込んだのは間違いない。

じつは、ボナールとてけっこういろんなタイプの絵を描いている。風景画も描いているし、もっとパブリックな場面での人物画も描いている。あるいは酒場のポスターなんかも(ボナールが画家を目指すようになったのは、ポスターが評価されたからだった)。

にもかかわらず、彼が「アンティミスト(親密派)」とも呼ばれるのは、その作品において親密さがひときわ印象的だったからであろう。そして、それには聴覚的効果も少なからず関与しているように私には思われるのだ。

すなわち、ボナールの親密な絵を見ていると(あるいは聴いていると)、音にも公私というものがあることに気づかされるのだ。ここで掲げた絵でも、聴こえてくるのはどこまでも「私音」であって、決して「公音」ではない。「私音」しか聞こえないことによって、ボナールの絵画はその性格が決定的なものになっている気がする。たとえ見る者がさほど明確に意識しておらずとも、まるで潜在意識に働きかけてくるかの如く、ボナールの「私音」は私たちの心に静かに浸みてくる。

親密さの追求こそ、アンティミスト・ボナール生涯のテーマだったといっても過言ではないのではないか。

オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展
会期: 2018年9月26日(水)~12月17日(月)
休館日: 毎週火曜日
開館時間: 10:00~18:00
 毎週金・土曜日は20:00まで。ただし9月28日(金)、29日(土)は21:00まで *入場は閉館の30分前まで
公式サイト: bonnard2018.exhn.jp
お問い合わせ先: 03-5777-8600(ハローダイヤル)
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藤田令伊
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藤田令伊 アートライター

アートライター、大正大学非常勤講師。単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる...

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