ブラームスを知るための25のキーワード〜その13:福祉家
毎週金曜更新! 25のキーワードからブラームスについて深く知る連載。
ONTOMO MOOK『ヨハネス・ブラームス 生涯、作品とその真髄』から、平野昭、樋口隆一両氏による「ブラームスミニ事典」をお届けします。どんなキーワードが出てくるのか、お楽しみに。
1949年、横浜生まれ。武蔵野音楽大学大学院音楽学専攻終了。元慶應義塾大学文学部教授、静岡文化芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授、桐朋学園大学特任教授。古典派...
隣人思い、友人思いのやさしい気高く尊い心
ここではブラームスのお金の使い方について話そうと思っているのだが、 その精神を象徴するひとつのエピソードから始めよう。
1885年夏のある日、前年から作曲してきた第4交響曲が完成される直前に、近所からの出火で延焼されそうになった時のことだ。彼はスコアの原稿など放置したままで、 歳を過ぎた肥満気味の体を献身的に動かし、灰まみれ、水びたしで消火作業にあたったのだった。気が気でなかったのは友人フェリンガー博士で、煙の充満しかけた部屋の中に飛びこんでスコアを持ち出したのだったが、ブラームスはそんなことよりも不運な人々を助けることの方が大切だと答えたそうだ。そして、 火事で家を失くした人々に経済的援助までしているのである。
こうした隣人思い、友人思いのやさしい気高く尊い心は、いたるところでブラームスに、あたかもそれはそのためにあるかのように大金を出費させている。そうした例をいくつか挙げておこう。
彼が卒業したホフマン学校創立50周年祝賀会への多額の寄付。友人ビューローが死んだ時、指揮者としての彼がもっとも深い関係にあったハンブルク・フィルとベルリン・フィルに団員の年金基金として各1000マルクを寄付。 さらに最晩年には、英国でブラームス作品の愛好家であったという人が亡くなり、その人の遺産が遺言によりブラームスに贈られたのであるが、その気持を喜び感動したものの、1000ポンドは楽友協会等への寄付金として使っている。
不特定多数の人々の幸せを願った彼のことであるから、友人のためとなれば葬式の費用まで面倒を見ている。たとえば1882年秋にはG. ノッテボームの危篤の知らせを受け、ウィーンからグラーツまで駆けつけ、小康状態をとり戻した時に、寒いこの地の冬よりもイタリアへ保養に行くのがよいと励まし、その費用から準備まで約束するのであった。しかし、12月29日に遂に世を去ってしまった時には、葬式費用全ての支払いを申し出たのである。晩年のブラームスは次から次へと友人たちに先立たれるのであるが、そうした場合の彼の気持ちや志は、ノッテボームに対したのと大同小異であった。
言うまでもなく身内の者への援助は当然のこととして長年にわたって行われた。とくに継母の生活費から病気の治療費等は彼の生涯に及んでいるし、実姉エリーゼにも、その嫁ぎ先のグルント家全員の家計の援助を年金のような形で与えていたし、エリーゼの継子アルフレートには学費まで出していた。
以上のようなことはほんの一例にすぎず、ほかにも自分の晩年の世話をしてくれたトルクサ未亡人母子や、シュ ーマン未亡人クララ母子等への援助は紹介するまでもなかろう。ブラームスの財産という項目で内容を明記しなかったが、彼にはまったく財産欲とか金銭欲というものがなかったわけで、たとえ遺されたものがあったとしても、ブラームスの遺志からすれば、恵まれない人々が少しでも幸せになるために使われるべきものであったはずなのだ。
第2章 ブラームスの生涯
第3章 ブラームスの演奏法&ディスク
今回紹介した「ブラームスミニ事典」筆者・平野昭と樋口隆一による「1853年の交友にみるブラームスの人間性」、「ブラームスの交友録」、「ブラームスを育んだ作曲家たち」、「ブラームスの書簡集」をはじめ、多岐にわたる内容を収録!
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