特集「アニバーサリー」ポーランド日本国交樹立100年記念

亡国の歴史を歩んだポーランドの独立と第1回ショパン国際ピアノ・コンクールのころ

読みもの
2019.01.27

2019年はポーランドと日本の国交樹立100周年。ピアノの詩人・ショパンを生んだポーランドは、何度も分割されるという悲しい歴史を歩んできた国家でもあります。そんな中、ショパンと彼の音楽は国民の心の支えであり、誇りでもありつづけました。
ポーランドが輩出した素晴らしいピアニストたちにスポットライトを当ててみましょう。名曲名演とともに、ショパン楽派の黎明期をご紹介します。

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メインビジュアル:フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの肖像/ウジェーヌ・ドラクロワ(ルーヴル美術館蔵)
ナビゲーター
下田幸二 音楽評論家・ピアニスト
下田幸二
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下田幸二 音楽評論家・ピアニスト
現在、桐朋学園音楽部門、相愛大学音楽学部、フェリス女学院大学音楽学部各講師。日本演奏連盟会員。全日本ピアノ指導者協会正会員。 三木楽器開成館特別演奏家コース講師。朝日...

ポーランドは亡国の歴史を歩んだ国です。1795年の第3次ポーランド分割、1830年のワルシャワの11月蜂起と翌年の敗北……国が存在しない中で、ポーランドの人々はその文化を守り、民族の誇りを失いませんでした。そして、第1次世界大戦後の1918年11月18日、ポーランドは「ポーランド共和国」(ポーランド第二共和国)として独立を果たします。翌年3月、日本はアジアの国として最初にポーランドと国交を結びました。つまり、2019年はポーランドと日本の国交樹立100周年なのです。

今年はそれを記念してさまざまな催しが日本で開かれます。中でも、ポーランドの英雄であり世界の人々を魅了し続ける「ショパン」の関係は多いようです。そこで、日本とポーランドが国交を結んだ時代からのポーランドのピアノ界=ポーランドのショパン楽派が形成されていった時代と、ショパン国際ピアノ・コンクールの果たした役割を俯瞰してみましょう。

ポーランド国外で活躍した人たち

チェルニー直系の弟子、テオドル・レシェティツキとその門下たち

ポーランド共和国成立は1918年ですが、それ以前のポーランドのピアニストでもっとも重要な一人にテオドル・レシェティツキ(1830-1915)がいます。レシェティツキはショパンやリストが20歳くらいの年に生まれ、長命でした。チェルニー直系の弟子で、非常によく通りよく響く美しい音を持ったピアニストでした。主にウィーンとペテルブルクで活躍しました。

その門下からイグナツィ・ヤン・パデレフスキ(1860-1941)、イグナツィ・フリードマン(1882-1948)、ミエチスワフ・ホルショフスキ(1892-1993)といったポーランド人ピアニストを輩出したのです。

テオドール・レシェティツキの肖像版画/フェルディナント・シュムッツァー(1911年)

直接ショパンに師事したカロル・ミクリとその門下たち

もう一人重要な存在はカロル・ミクリ(1821~1897)です。彼は直接ショパンに師事したピアニストでした。その門下からは後述するアレクサンデル・ミハウォフスキ(1851~1938)、マウリツィ・ローゼンタール(1862~1946)、ラウル・コチャルスキ (1884 or 1885~1948)などの俊英が生まれました。

 

ショパン:ポロネーズ変ロ長調 作品71-2遺作/テオドル・レシェティツキ

「鍵盤の王」アルトゥール・ルービンシュタイン

ポーランド共和国の時代=第一次と第二次世界大戦間期は21年になりますが、その間にポーランド国外で活躍したポーランド人ピアニストを見てみましょう。

一番有名なのはアルトゥール・ルービンシュタイン (1887-1982)です。両大戦間期というのは、つかの間の平和な時代であると同時に、ナチスに代表されるファシズムによってユダヤ系民族が迫害されていった時代でもありました。

そのため、ユダヤ系の音楽家や知識人の多くはヨーロッパから逃げ、アメリカに人材が集まるようになります。ルービンシュタインはその象徴的な存在でもありました。その音楽の堂々たる風格は「鍵盤の王」とまで言わしめました。

アルトゥール・ルービンシュタイン  © Joost Evers / Anefo

ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 作品22/アルトゥール・ルービンシュタイン

ラフマニノフに難曲を献呈されたユゼフ・ホフマン

ルービンシュタインと並んでアメリカで成功したピアニストにユゼフ・ホフマン(1876-1957)がいます。クラクフにうまれ、ロシアのアントン・ルビンシテイン(1829-1894、母方がポーランド系であった)の唯一の私的生徒になりました。第一次大戦中からアメリカに住み、1926年に市民権を獲得しました。

当時のホフマンは、戦後のホロヴィッツを上回るような大活躍でした。その魔法のようなタッチと変幻自在なピアニズムは多くのピアニストに尊敬され、ラフマニノフは《ピアノ協奏曲第3番》を献呈するほどでした。

 

ショパン=リスト:6つのポーランド歌S.480第5曲《私のいとしき娘》/ユゼフ・ホフマン

ショパン・エチュードの編曲版をつくったレオポルド・ゴドフスキ

ほかにも国外で活躍したポーランド系ピアニストはたくさんいますが、ショパンのエチュードの編曲版でも有名なレオポルド・ゴドフスキ(1870-1938)は忘れてはいけない名前でしょう。

ショパン国際ピアノ・コンクールの始まりから、ショパン楽派へ

コンクール創設に尽力したイェジー・ジュラヴレフほか、審査員たち

国外で活躍したポーランド人ピアニストは皆たいへん個性豊かでした。

一方、両大戦間期のちょうど真ん中あたりの1827年、「第1回ショパン国際ピアノ・コンクール」がワルシャワで開かれます。その創設に尽力したのは「フリデリック・ショパン名称高等音楽学校」の教授であったイェジー・ジュラヴレフ(1886-1980)でした。

第1回のコンクールは、演奏者26名で予選と本選のみ。2015年の第17回の応募者はなんと445名ですから、比較にならないくらい小規模でした。しかし、このときの審査員たち、そしてポーランド人入賞者たちが、その後のポーランドのショパン楽派を形成していくことになります。

第1回の審査員には、ポーランド・ピアノ界の4人の重鎮が含まれました。それは、先のジュラヴレフミハウォフスキ、そしてユゼフ・トゥルチンスキ(1884-1953)、ズビグニェフ・ジェヴィエツキ(1890-1971)です。そのうち、2人の巨匠の演奏を聴いてみましょう。

ミハウォフスキは非常に自由闊達な演奏をしたヴィルトゥオーゾでした。先生としても悲運の天才女流ルジャ・エトキン(1908-1945)やチェンバリストであるワンダ・ランドフスカ(1879-1959)など個性的な門弟を生みました。

 

ショパン:エチュード変ト長調作品10-5《黒鍵》/アレクサンデル・ミハウォフスキ

ズビグニェフ・ジェヴィエツキと門下たち

ジェヴィエツキは父ルドヴィクに師事し、パデレフスキの薫陶も受けました。深い楽譜の読みから虚飾を排した誠実なショパンを弾いた人でした。

その門下にエキエル版で有名なヤン・エキエル(1913~2014)、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ(1922~2001)、アダムハラシェヴィチ(1932~)といった戦後のポーランドのショパン楽派の中心人物を多数生むことになります。

 

ショパン:ノクターンハ短調遺作/ズビグニェフ・ジェヴィエツキ

現在のショパン楽派

さて、現在のポーランドのショパン楽派の特徴とは何でしょう。その系譜は複雑で一言では言えません。

しかし、例えば人気絶頂の現役ポーランド人ピアニストのクリスティアン・ツィメルマン(1956~)やラファウ・ブレハッチ(1985~)などの演奏を聴いてみると共通項は感じます。「ノーブルな音とタッチ」、「誠実な楽譜の読み」、「虚飾なきロジカルな音楽」、「心地よいヴィルトゥオジティ」……そういったものは、ショパンの時代からポーランド共和国時代を通して、長い伝統と歴史の中で少しずつ醸成されていったものなのです。

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