読みもの
2022.07.23
ほんとうは“危険”な名曲 #2

モーツァルト「ピアノ協奏曲第21番」 晴れた日に感じる理由なき悲しみ~人間の業への赦し

クラシック音楽評論家の鈴木淳史さんが、誰でも一度は聴いたことがあるクラシック名曲を毎月1曲とりあげ、美しい旋律の裏にひそむ戦慄の歴史をひもときます。

鈴木淳史
鈴木淳史

1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...

ハインリッヒ・ロッソウ「ニーダーエスターライヒ州イップスのフランシスコ会教会で1762年9月に初めてオルガンを演奏した若いモーツァルト」(1864年、油彩画)

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初夏の空の下モーツァルトは流れる

6年あまり住んだ家から引っ越したあと、旧宅の後片付けに出向いたことがあった。

初夏の晴れわたった空の下、雑草を刈り取っていたときだ。敷地へせまった山の向こうから、だしぬけに音楽が鳴った。モーツァルトのピアノ協奏曲第21番、第2楽章アンダンテであることは違いない。だが、まるで現実の気がしない。

モーツァルト「ピアノ協奏曲第21番」第2楽章

音の出所はおおよそわかる。その小さな山の向こう側に幼稚園があって、運動会やらのときはにぎやかな音楽が響いてきたものだから。ただ、モーツァルトのピアノ協奏曲なんてものが流されたことは、住んでいたあいだ一度もなかったはずだ。

管弦楽だけの部分が終わり、独奏ピアノが入ってきた。本当にモーツァルトの曲なんだな、と思った。金縛りにあったように身体が動かない。青い空に目をやったまま呆然と立ち尽くすばかり。

これがドヴォルザークの交響曲第9番であれば、「なんだよ、新世界かよ」などと聴き流していたかもしれず、あるいはヴァレーズの《アルカナ》だったら、「何事が起こってるんだ!」と音の出る方向へと間髪いれずに駆け出したろう。

エドガー・ヴァレーズ《アルカナ》

不意を突いたモーツァルトは、人を立ち止まらせる。音楽が自分のなかに入りこんで、人生を振り返らせるようにさまざまな感情を波立てていく。

音楽に浸食されるような不安 

モーツァルトの音楽のヤバさは、その変化の妙にある。突然に転調したり、ある旋律が別の旋律に思いも寄らぬ形で繋がれたりする。それがまたごく自然な流れのなかで行なわれてしまうので、音楽のなかに入ってなければ「心地よいロココな気分」で終わりがちだ。

しかし、不意を突かれたり、演奏会などで真正面から聴こうとすると、その変化の波が聴き手の感情や記憶などに同期して、途端に身動きがとれなくなってしまう。まるで音楽が聴き手を浸食し、空白へと置き換えていくような。

このピアノ協奏曲第21番の冒頭楽章は、行進曲風の颯爽とした主題で始まる。独奏ピアノがこの旋律を受け継いでほどなく、前触れもなくト短調に転じ、急に目の前の視界が暗くなる。そこから音階が上昇していき、第2主題の無邪気なまでに優しげな旋律が出た瞬間の、なんと生々しいことよ。

モーツァルト「ピアノ協奏曲第21番」冒頭楽章

第2楽章の主部は、穏やかな3連符に乗って晴朗なヘ長調のなかを浮遊していく。長調なのにどこか物憂げな色合いをも宿す、モーツァルトならではの旋律だ。晴れわたった日、ふと感じてしまう理由なき悲しみのように。

転調が多い中間部は、その微細な移ろいによる陰影感が美しい。ただ、宙に浮くような心地になるこの楽章において、その安定感を欠いたエアポケット的変化には、いささかの心細さも感じつつ。

スクリーンを美しさと残忍さで彩る

この第2楽章の音楽は、多くの映画のスクリーンを彩ってきた。なかでも、もっとも印象的だったのは、『日本の黒い夏―冤罪』(熊井啓監督)という映画での使われ方だった。

オウム真理教による松本サリン事件で、最初に犯人と疑われた男性の冤罪を扱った映画である。映画の最後のほうに、サリンがまかれ、人々が倒れていくシーンがある。

事件が起こる夜、第一通報者ともなった男性(のちに犯人と疑われることになる)は、自宅である番組を見ようとテレビをつける。それは音楽番組らしく、このピアノ協奏曲第21番の第2楽章が流れてくるのだ。

その音楽は、ソースミュージックからアンダースコアへと転換。つまり、背景音楽となって、宗教団体がサリンを噴霧する場面や、それを吸った人々が次々に倒れていくシーンに絡みついていく。そんな場面で流れるこの音楽の、なんと美しくも残忍なこと。

ちなみに、実際に松本サリン事件が起きた日時に、こういった音楽番組がテレビでは放送されてなかったことは確か。つまり、ここでピアノ協奏曲第21番を登場させたのはフィクションであり、あえてこの場面をモーツァルトに背負わせたというわけだ。この音楽に潜んでいる人間の業の深さを引き出した、優れた演出だと思う。

そのシーンを見て、すぐにこんなエピソードをわたしは思い出した。アウシュヴィッツ強制収容所で、ユダヤ人をガス室に送り込む仕事に携わったドイツ人将校の話だ。彼は一仕事終えて自室に戻ると、モーツァルトのレコードに耳を傾けることを日課としていたという。

ささくれだった精神を優雅な音楽で和ませた、だけではないはず。彼はきっと、その音楽に自ら手を下した悪行を含めた人間の業を見出していたのではないか。その繊細にうねる波に同期することで、自らを空っぽにさせていたのではないか。そうして、最後に訪れる「赦し」を待っていたのかもしれない。

エドゥアルト・フリードリヒ・ライボルト「モーツァルトの最期」(1857年、リトグラフ)

苦味を伴う「赦し」の世界

モーツァルトの音楽の危なさには、そういった「赦し」が設けられていることも含まれる。

ベートーヴェン作品の典型的な終わり方は「勝利」であるのに対し、モーツァルトの場合は「赦し」だ。「色々なことがさんざんあったけれど、最後は赦し合おうね、人間だもの」などと、つい色紙に書きたくなるような文言を含んだフィナーレを書く。

ただし、その赦しにはつねに苦味を伴わせるところが、ほかの古典派作曲家との違いだ。歌劇《フィガロの結婚》や《コジ・ファン・トゥッテ》の最後のシーンを思い出して欲しい。オペラ・ブッファの終わりにふさわしい、大団円という形を取っているものの、そこには不穏な空気が張り詰める。決して幸福とは言い切れないフィナーレだ。

モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》のワンシーン(19世紀、水彩画)

登場人物たちは、もとの良い関係には絶対に戻れるわけがないという確信を抱きつつ、それでも他者と関係を築かなければと決意する。そうした心の強さ、つまり理不尽を受け入れる強さは、切った張ったで自己を盛り上げるベートーヴェンを軽々としのぐ。

使用法にはくれぐれもご注意を。

鈴木淳史
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1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...

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