ケージ《4分33秒》 音楽って何だろう?聴くことの復権がパンドラの箱を開ける
クラシック音楽評論家の鈴木淳史さんが、誰でも一度は聴いたことがあるクラシック名曲を毎月1曲とりあげ、美しい旋律の裏にひそむ戦慄の歴史をひもときます。
現代曲でいちばん有名な曲?
20世紀後半に入って作られた、いわゆる現代曲と呼ばれるジャンルで、誰もが知っている(とされる)名曲は、ほとんどない。場合によっては、まったくない、とさえ言ってしまうことだってできるだろう。そのなかで、ジョン・ケージの《4分33秒》は、かなり健闘しているのではないだろうか。
4分33秒のあいだ、演奏者が何の音も出さないという音楽は、ある意味とてもわかりやすい。トリビアを扱うバラエティ番組でネタになっていそう。「へぇー、そんな音楽があるんですね。びっくりー。笑えるー。で、次のコーナーは……」
作曲されたのは1952年。同年8月、ウッドストックで、ピアニストのデイヴィッド・チューダーによって初演された。全3楽章で、各楽章には「TACET」と指示がある。休止せよ、という意味だ。つまり、演奏家は何もしない。音も出さない。
沈黙を聴く、という解釈もあるだろう。ただ、演奏会場にだって完全な沈黙は存在しない。どんなに大人しくしていようが、耳を澄ませばそこに空調や呼吸の音だって聞こえてくるわけで。それらをすべて音楽として聴く、ということにこの曲のコンセプトは置かれている。
ただ、そういったものを人は「音楽」として聴けるかどうか、だ。作曲も演奏も存在しない、無主物たる音なんぞ、単なる音じゃねえかよ、ノイズとどう違うのかね、といぶかしむ人だっているはずだ。
ペトレンコ、ベルリン・フィルによる《4分33秒》
音楽として認識されているものだけが音楽ではない
単なる音のようなものを音楽として味わうこと。そのためのキッカケや器を与えるのが作品。これがケージの考え方だった。音楽は自己主張ではなく、音楽そのものとして存在すること。それを認識していくことこそ、音楽行為というわけだ。
それは、まさしくこれまでの「作曲」「演奏」「聴取」という伝統的な枠組みを完全に変えてしまうことを意味する。とりわけ、これまで受動的なニュアンスが強かった「聴取」という行為のウェイトがぐんと高くなる。
すると、これまで行なわれてきた「聴取」が、いかに社会的、文化的に規制されてきた行為であったかということが急にクローズアップされる。モーツァルトのソナタを音楽として認識することはできても、隣りで寝ているオヤジのイビキは雑音としか思えないのは、何かしら特定の文化的コードによって我々は雁字搦めにされているのではないかというように。
そういうものから完全に自由になるのは、結構どころか、かなり難しい。ただ、そうした意識をもって、音楽とは何かということを考えようというメッセージも、この《4分33秒》という曲には含まれている。なんという破壊的で、危ない音楽であろうか!
成田達輝さん他による《4分33秒》(ピアノ五重奏版)
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