夫婦のいびつな力関係が生んだ悲劇――レオンカヴァッロのオペラ《道化師》
公開中の映画『ジョーカー』や『it』で怖い道化師が大活躍ですが、2019年に没後100年を迎えたレオンカヴァッロ作曲のオペラ《道化師》で、主人公が扮するピエロもかなり怖いです......。
数あるオペラのなかでも、特に凄惨なラストシーンは、パートナーを「管理」してしまった、2人の歪んだ関係性が原因だった? 香原斗志さんを講師に迎えて、オペラから恋愛の教訓を学びましょう。
イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。著書に「イタリアを旅する会話...
脅迫されれば逃げる
昔から「結婚は人生の墓場」という言い方がありますが、「結婚」していたのがアダとなって、本当に「墓場」に送られてしまったのが、レオンカヴァッロのオペラ《道化師》のヒロインのネッダです。
もちろん、結婚自体に罪があるわけではありません。世の中、結婚しなくても幸せに暮らしている人もいますが、結婚生活に幸せを見いだしている人も大勢います。では、なにがいけなかったのかというと、結婚の仕方とか、結婚相手とのいびつな関係に問題があったと思われます。
左: 道化師の衣裳を着たカニオを演じるエンリコ・カルーソー
《道化師》は、南イタリアの旅回りの芝居の一座を舞台にした話で、第1幕の冒頭近くにこんな場面があります。村人たちから「一杯やらないか」と誘われた座長のカニオは、喜劇役者のトニオも誘います。でも、トニオが「先に行っていてくれ」と答えると、村人たちはカニオに「気をつけろよ、ヤツ(トニオ)は(カニオの妻の)ネッダを口説きたくて残ろうとしているんだぞ」と、冗談半分に警告します。こんなときは軽く受け流せばいいのに、カニオにはできません。「その種の冗談はオレにはしないほうがいいと思うよ」と切り出し、続けて、芝居のなかの話ならともかく「もしネッダが本当にほかの男と一緒にいるところを見たら、話は別の結末になる」と言います。つまり芝居のようにハッピーエンドにならず、悲劇的な結末を迎えかねない、とほのめかすのです。
カニオは、若い妻のネッダを自分のもとに縛りつけておきたいのでしょう。カニオはそれが妻への愛情表現だと信じているようですが、どんなに脅して縛ったところで、心までは縛れません。彼女の心をつなぎ止めておきたいのなら、むしろ脅迫めいた言葉は禁物のはず。でも、カニオには脅迫しかできません。それでは、人の心は逃げてしまいますよね。
不惑の男性と少女のアンバランス
こうしてカニオとネッダは、2人をつなぐ結婚という関係に対して、それぞれがアンビヴァレントな意識を抱いて、その結果、悲劇へと突き進みます。ここで悲劇がどう展開するか、あらすじを確認しておきましょう。
旅回りの一座が村にやってきて、上記の場面になりますが、このときネッダは気が気ではありません。自分の浮気がバレているのではないかと心配になったのです。彼女は自由への憧れを空を飛ぶ鳥に託して歌います(「鳥の歌」)。
ネッダはトニオに口説かれますが、彼の顔をムチでたたいて拒みます。そこに浮気相手のシルヴィオが登場。駆け落ちしようと切々と誘い、ネッダも折れて愛を口にし、2人は熱く抱きあいますが、実はトニオに目撃されています。
ネッダにふられた腹いせに、トニオは浮気現場にカニオを連れてきます。カニオは逆上し、「男の名前を言え!」とネッダに迫りますが、彼女は口を割りません。そこで舞台の準備を促されたカニオは、怒りと悲しみに泣きながら衣装をつけて舞台に立ちます(アリア「衣装をつけろ」)。
その芝居は、ネッダ演じるコロンビーナが浮気をするという内容。彼女のセリフが、本当の浮気相手にかけていた言葉と同じだと気づいたカニオは、芝居と現実の区別がつかなくなって、ネッダとシルヴィオを次々に刺し殺してしまいます。
台本には明記されていませんが、カニオとネッダの間にはかなりの年齢差がありそうです。もちろん、夫婦の間に年齢差があってはいけないという話ではないし、どんな組み合わせでもうまくいくカップルはうまくいきます。ただ、年齢にかぎらず二人の境遇に違いがありすぎる場合は、特に気をつけたほうがいい点がいくつかあるように思われます。
ここで一組の元夫婦を思い出しました。『ロード』という曲で知られるタレントと、24歳年下の往年の大俳優のお嬢さんで、一時は「おしどり夫婦」と呼ばれましたが、離婚してしまいました。しかも離婚訴訟の裁判で明かされたのは、夫のモラルハラスメント。言葉づかいから門限、お金の使い方にいたるまで徹底的に口出しし、妻を娘のように、いや、それ以上に縛りつけていたという話でした。
結婚当時、夫は不惑の年齢で、妻はまだ16歳。夫は最初、妻を子ども扱いして管理したのでしょうが、それが習い性になったら夫婦関係はうまくいくはずがありません。社会問題になっているDVカップルもそう。あれは仲が悪いのではなく、たいていは親密な間柄です。親密だからこそ相手をもっと支配したいと思って繰り返し虐待を加えてしまい、虐待されたほうは洗脳され、そこから逃れられなくなります。でも、なにかのきっかけで洗脳が解ければ、逃げたくなるのは当然です。
見守れない、が悲劇を呼ぶ
ネッダもそっくりです。彼女は有名な「鳥の歌」で、「私は生命力にあふれ、秘密の欲望にからだ中が悩ましい」と、自分が女性として成熟したことを実感し、「ああ、鳥たちは飛び交い、さえずり合っている」と、自由への憧れを口にします。
ここから、彼女も少女時代に、かなり年齢が離れたワンマン座長のカニオと結婚したものの、もう嫌気がさしていることがうかがえます。ネッダはいつしか女盛りになったのに、厳しい親のような夫に徹底管理されたままでは、それも当然でしょう。
こうして、村人のシルヴィオとの禁断の愛に走るわけですが、「禁断」が「厳重に禁止するべき」という意味であるなら、少女を縛りつけようとしたカニオの愛のほうが、むしろ禁断の愛なのではないか、とも思えてきます。
「人生は、経験しなければ理解できない教訓の連続である」とは、19世紀のアメリカの思想家、エマーソンの言葉です。結婚生活がうまくいっている場合の多くは、夫婦それぞれが恋愛経験や社会経験を積んでいて、そうして得た教訓を糧に、結婚を「人生の墓場」にしないように、たがいに危機管理をしています。
ところがカニオは、よほどかわいかったのか、親代わりに育ててあげるつもりだったのか、年端もいかないネッダを妻にして一方的に管理しました。でも、経験によって培った経験がなかったネッダが、自分がいびつに管理されていることに気づいたとき、アンバランスな結婚から逃げたくなるのは当然でしょう。
カニオは、ネッダのことを愛していたのなら、愛情をもって見守りながら経験を積ませるべきでした。その結果、彼女の心がカニオから離れたなら仕方ありません。自分のもとにつなぎとめ、ほかの異性を遮断しようとしても、どこかの全体主義国家のようで、心まではつなぎとめられないし、隙を見ては逃走や暴動に発展しかねません。それに逆上して逃走犯を刺し殺すなんて、悲劇ですけど、愚の骨頂です。
妻が、夫が、禁断の愛に走るのを防ぐためには、やっぱり、結婚相手との関係のバランスがとれていることが大事なんですね。
レオンカヴァッロ作曲《道化師》
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