羽生結弦が成し遂げたスケートと音楽の高度なマリアージュ~バラード第1番&SEIMEI
7月19日、「フィギュアスケートの羽生結弦がプロ転向」のニュースが世間を駆け巡りました。ONTOMOでは、羽生結弦のこれまでの演技を音楽との関わりから、音楽ジャーナリストの視点で振り返ります。
音楽大学在学中より創作(演奏・執筆・デザイン)活動を始め、現在、音楽雑誌、新聞、季刊誌、リサイタル・プログラムやCD解説等々、独特な視点による文体やインタヴュー・アプ...
今夏7月19日。フィギュアスケートの羽生結弦(1994~)が「決意表明」の会見を行なった。羽生のこれまでの輝かしい実績と、それに伴う身体へのダメージ。一般的に、年齢的に競技人生が終盤に差しかかっていることは、ファンのみならず感じていたはずだ。だから「今後は競技会には出場せず、プロのアスリートとして」という羽生の言葉に、遂にこの日が来たかという思いと、労いや感謝の思いも湧いた。
思い起こせば羽生のコーチであるブライアン・オーサー(1961~)、振付を担当したシェイ=リーン・ボーン(1976~)やジェフリー・バトル(1982~)らの現役時代を観ている身としては、エフゲニー・プルシェンコ(1982~)に憧れて髪型を真似た羽生の少年時代から今日までの年月が、感慨の極みである。
生まれもった音感とリズム感の良さ
筋金入りとも言える(?)、長らく観戦しているフィギュアスケートのファンとしては、選手たちのプログラムの“表現”には常々注視している。選曲と構成、振付、衣装、そしてそれらをトータルでどのように表現するのか。毎シーズン、ワクワクしながら観戦しつつも職業意識も働いて、プログラムと選手の個性がマッチしているか、シーズン初めはプログラムの未成熟は致し方なし、ジャッジの傾向などなど、類似点の多い音楽コンクールとも重ねて観てしまう。
羽生の場合、スケート技術の高さもさることながら、音感とリズム感の良さには幼少期の頃から感心していた。例えば2007年の全日本ジュニア選手権大会。フリーでのストラヴィンスキー《火の鳥》など、ジャンプやスピンが拍感と一体化しており(ズレなく合っているというだけではなく)、技のないところでも音楽を纏っている。
そんな羽生は当時12歳にして、ストラヴィンスキーの音楽の緩急を舞っていたから恐れ入る。音楽コンクールで言うと、いくら難曲を超絶な技巧で超速で弾いても、それだけでは聴き手の心を動かすことはできない。感心はするけど感動はない、ということである。
《バラード第1番》の中に圧巻のストーリーを創る
シニア世代となり、2014~15年シーズンから3回にわたって羽生が取り上げたショパン《バラード第1番 ト短調 作品23》など興味深い。
ショパン作品の中でも名曲中の名曲で、録音には名演も多い。そういった数ある中から、羽生はクリスチャン・ツィメルマン演奏の音源をチョイスした。筆者の周りのフィギュアスケートファンの中には「○○さんの演奏の方が合うのでは?」という声もちらほらあったが、羽生が自身を託せるのがツィメルマン盤なのだろう。
ショパン《バラード第1番 ト短調 作品23》(ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン)
まず序奏部分。3小節のフレーズを、約15秒かけてツィメルマンはたっぷり取る。特に3小節目は8分音符をテヌート気味に弾いているのが特徴的で、そこで羽生は高めてきた集中密度を“羽生のバラード”の世界へ移行する。
ショパン《バラード第1番》序奏の3小節:3小節目で“羽生のバラード”の世界へ
そして第1主題(第8小節~)と共にスケーティングが進行していくのだが、先述のとおり、技のない箇所でも羽生はスケーティングを行なっており(ジャンプの準備の溜めのような“無の時間”にはせず)、それはあたかもツィメルマンを指揮しているかのよう。
ショパン《バラード第1番》第8小節~ 第1主題
演技終盤では、激しいコーダ(第208小節~)での拍の取り方が抜群で、ラスト(第258~264小節)に入れられたコンビネーションスピンでの締め方まで、原曲10分弱の作品を、ショートプログラム2分40秒(±10秒)の中に圧巻のストーリーを創る。
ショパン《バラード第1番》第208小節~ 激しいコーダ:羽生の拍の取り方は抜群
ショパン《バラード第1番》第258~264小節:羽生はコンビネーションスピンで締める
平昌五輪のフィギュアスケート男子で66年ぶりの連覇を達成した羽生結弦。ショートプログラムにおける《バラード第1番》の演技
音楽空間も支配した《SEIMEI》の演技
それがさらに進化し鬼気迫るほどの演技となったのが、2018年の平昌オリンピックでの梅林茂《SEIMEI》ではないだろうか。冬季オリンピックでの二連覇がかかっていたが、直前のケガで出場すら危ぶまれた。
ところがフリーでの《SEIMEI》は何かが憑依したかのような次元のもので、音源は録音なのにライヴのように聞こえ、空気すら支配しているようだった。連覇やメダル獲得という概念を超えた、フィギュアスケートそのものを進化させた瞬間だったように思う。
その後も羽生は新しいプログラムと共に、我々をも高みに連れて行ってくれた。民族舞曲のマズルカやポロネーズを芸術作品に昇華させたショパンのように、羽生結弦はスケートと音楽の高度なマリアージュを成し遂げた。
これからは「プロのアスリートとしてスケートを続けていく」と言うところが羽生らしい。制限のある競技会ではできなかったことに、次なるステージで挑戦していくであろう羽生結弦の第2章。エールを送るとともに、楽しみに観ていきたい。
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