クラシック音楽にもタイパ・ブームは押し寄せるか~古今のファスト演奏、作品を楽しむ
音楽評論家の鈴木淳史さんが、クラシック音楽との気ままなつきあいかたをご提案。膨大な音源の中から何を聴いたら分からない、という方へ。まずは五感をひらいて、音のうつろいにゆったりと身を委ねてみませんか?
動画を倍速で見る。映画を10分ほどの時間にまとめたファスト動画が流行る。こうしたことが近年話題になる。タイパ、つまりタイムパフォーマンスを重視する人々が若い層を中心に増えたからだという。増え続ける膨大なコンテンツに接しようと、できるだけ効率よく鑑賞しようという思考なのだろう。鑑賞というより消費といったほうがいいのかもしれないけれど。
ふと思ったのは、クラシック音楽にもそんなブームは押し寄せるのだろうか、ということだ。
たとえば、バッハのカンタータ全曲を鑑賞してやろうと思い立つ。200曲以上あるカンタータを丹念に聴く時間というのは、なかなか捻出できないものである。とはいってみても、それらを倍速で聴くタイパなお人は、さすがに見かけない。
いや、将来的には「わしが金払うて買うたもんや。倍速で聴いて何が悪いねん」といった思いきりの良さから始まる新しいムーブメントも生まれるかもしれない(というところまであと一歩まで来ているという気もしないではない)。
ただし、コンテンツを自分の好みに合わせてアレンジして楽しむのと、本当はじっくりと楽しみたいのに時間がないから倍速で聴くのとは、まるっきり趣きが異なってくる。後者はまるで苦行のようじゃないか。
また、マーラーの交響曲があまりにも長いので、10分あまりに縮めて演奏してみました、という話も寡聞にして知らない。ファスト動画ならぬファスト交響曲である(ちなみに、リストの《ファウスト交響曲》とはまったく関係がない……ものの、この曲も妙に長いので短縮版があってもいいかも)。
ブルックナーやマーラーの交響曲のファスト化?!
いや、ブルックナーの交響曲の改訂版というのは、もちろん理由は違うにしても、一種のファスト交響曲化といえるのかもしれない。ブルックナーの弟子たちが、師匠が書いた繰り返しが多く長大な交響曲を改訂する上で、クドい部分をばっさりカットしたのは、聴き手が飽きてしまうのではないかという配慮に基づくものだった。
また、シェルヘンがマーラーの「交響曲第5番」を演奏したときに、第3楽章の一部をカットしたとか、古典派交響曲の提示部繰り返し指示を無視するとか、クラシックにおけるタイパ的なものって意外にあるのかもしれない。
SP時代からあったタイパ的演奏
そう考えりゃ、倍速演奏というのも、決してなくはない。たとえば、20世紀前半の新即物主義の時代のパフォーマンス。客観性を求めるあまり、表現を重たげに塗り込めることなく、運動性や構築性をクローズアップした演奏だ。
トスカニーニを始めとして、クレンペラーやシェルヘン、パレーといった指揮者が、うんと速いテンポでシンフォニーを演奏したのだった(クレンペラーは晩年になって、極遅テンポの指揮者に変貌するのだけれど)。
さらに、SPレコードの普及は、タイパ的な演奏を多くもたらした。SPレコードの片面の録音時間は5分程度。この時間内に曲や楽章をきっちりと収めるために、速いテンポを求められたり、曲の一部をカットして無理矢理に時間内に収めるということがよくあった。
ベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ第9番《クロイツェル》」の第2楽章は、主題と4つの変奏とコーダからなる音楽だ。しかし、この1911年に録音された演奏では、第3変奏と第4変奏をカットし、第2変奏からコーダへと繋げてしまっている。
ヨーゼフ・シゲティの演奏によるベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第9番《クロイツェル》」第2楽章
聴いてみると、これもアリかなとは思う流暢な繋ぎだ。ただ、第3変奏で急に翳りを帯びて、また気持ちを建て直すように第4変奏へと入っていく部分がないのは、やはり物足りないか。それよりも、晩年のゴリゴリした渋い演奏のイメージが強いシゲティが、若い頃は、こんなにめろめろな美音で奏でていたとは!
タイパ的作品の潔さを楽しむ
タイパ的な精神が入っている作品もある。たとえば、新ウィーン楽派の作曲家ウェーベルンによる「極小形式」というスタイルだ。
ウェーベルンは、繰り返しや長々とした展開、もったいぶった流れなどを音楽からすべて排除して、キレイサッパリ、潔いほどに短く凝縮された作品を書いた。大事なことでも一度しか言わないのがクールだし、旋律をのんびりと味わう時間だってムダじゃん。音楽ってやつはキリッとコンパクトで、宝石が一瞬輝くようなものでなければと思ったのだ。
「チェロとピアノのための3つの小品」は、3つの楽章が2分から3分の短い時間で演奏される。第1楽章は変奏曲形式だが、目まぐるしく変化していくというより、どれが主題なんだろうと考えているうちに終わる。第2楽章は勢いがある音楽だが、うわっと攻めてきてぱたっと終わる感じ。第3楽章は音数がさらに減り、ゆっくりと消え入るように、やはり気づいたときにはもう終わっている。
ウェーベルン「チェロとピアノのための3つの小品」
ただし、ウェーベルン作品は、その凝縮度がハンパない。小さいけれど密度があるのでズシリとした手応えもある。それに比べ、もっと軽やかな極小形式の作品も紹介しておこう。こちらは10曲で4分弱のピアノ作品。
ホセ・アントニオ・ボッティローリ「10のマイクロワルツ」(トラック16-25)
ワルツの主題が現れるが、出てくるだけ出てきて、何も変化せず終わってしまう。じつに「言いっ放し」な曲が連なる。次にどうなってしまうんだろうという渇望感も沸くけれど、その無責任な感じが、また潔くていい。こつこつ変化させる奴はごくろうさん!
こちらは、コンパクトにまとめたからこそ、洒落っ気が効いている2分半の変奏曲だ。モーツァルトの「クラリネット協奏曲第1番」の冒頭楽章の主題を自由自在に、めまぐるしく変奏している。先に取り上げたウェーベルンの変奏と違い、それぞれの性格がはっきりした変奏だ。コーダには《フィガロの結婚》からの一節「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」が引用されているところが、またオシャレ。
ポール・ハリス「モーツァルトの主題による幻想的マイクロ変奏曲」
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