読みもの
2018.12.09
飯尾洋一の音楽夜話 耳たぶで冷やせ Vol.9

待てない「第九」

人気音楽ジャーナリスト・飯尾洋一さんが、いまホットなトピックを音楽と絡めて綴るコラム――連載第9回は、年末になると聴こえてくるあのメロディ、ベートーヴェンの「歓喜の歌」について! 往年のファンにとっては第1楽章から第3楽章あってこその「交響曲第9番《合唱付き》」も、手っ取り早く歓喜に至りたいリスナーにはまだろっこしい? 第九はどこまで速くなるのか。「もっとも速い」第九は何分だ!?

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飯尾洋一
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飯尾洋一 音楽ライター・編集者

音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...

メインビジュアル:作曲するベートーヴェン/Carl Bernhard Schlösser(1832-after 1914)

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街中で炸裂する第九爆弾からは何者も逃れられない!

今年もあっという間に12月である。
12月といえばクラシック音楽界は「第九」。特に後半に入ると、毎日どこかで「第九」が演奏される。週末ともなると4団体、5団体ものオーケストラが「第九」を演奏する日も珍しくない。人類史上屈指の傑作を年中行事として聴けるのだから、ありがたいというほかない。

が、師走の「第九」現象には強烈な副作用がある。「歓喜の歌」が醸し出す年末感が便利すぎるゆえに、街中の至るところで「歓喜の歌」のメロディが延々と繰り返されるのだ。

買い物や食事に入ったお店で、ずっとループで流される「歓喜の歌」。ベートーヴェンに歳末大売出しの案内が重なる。終わることのないBGMとして強制的に聴かされるとなると、これは辛い。ぜんぜん歓喜じゃない。いつどこからやってくるかわからない「第九」爆弾。宝くじ売り場で「歓喜の歌」が流れてきたときには感心してしまった。たしかに当選したら歓喜するしかない。「フロイデ!」と鼻歌のひとつも歌いたくなるだろう。

実際の「第九」の演奏会では、歓喜はなかなか訪れない。全4楽章の大作交響曲で、「歓喜の歌」が登場するのは最後の第4楽章だけ。第1楽章から第3楽章までは歌手に出番はない。おまけに第4楽章に入った後も、まず第1楽章、第2楽章、第3楽章の主題を回想して、「おお、友よ、こんな調べではない」とこれまでを否定するようなことを歌ってからでなければ、「歓喜の歌」は始まらないのだ。ファンにとっては先の3つの楽章があるからこそ第4楽章が成立するわけだが、普通の人の感覚からすると「なんだか手順が多くて、ベートーヴェンって、めんどくさいヤツだな」くらいに思っても不思議はない。

つまり、本物の「第九」は待たされる。街中でいきなり「歓喜の歌」が流れ出すのは、そんな「待たされる」ことへの反動なんじゃないかとすら思う。

「歓喜の歌」まで待たされる、「第九」演奏史

もっとも、歓喜へと至る待ち時間は徐々に短くなる傾向にある。近年、「第九」の演奏時間は短くなってきたと感じる。

かつて音楽CDの1枚あたりの収録時間を74分と定める際に、ベートーヴェンの「第九」がディスク一枚に収まるように考慮されたという有名な話がある。
名盤として知られる1951年録音のフルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団による「第九」は74分台。1983年録音のカラヤン指揮ベルリン・フィルの「第九」はもっと短くて約66分。多くの「第九」はだいたいこのあたりのどこかに落ち着いていたと思う。

指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団

指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

しかし作曲当時の演奏法を尊重する古楽系の指揮者たちが「第九」を振るようになると、速い「第九」が珍しくなくなる。ベートーヴェンによるメトロノーム指定はもっと速いというのだ。
1988年録音のホグウッド指揮AAMの演奏は約63分、1992年録音のブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの演奏も約63分、同年録音のジョン・エリオット・ガーディナー指揮ORRの演奏に至っては59分台で、ついに60分を切ってしまった。夢の59分台に突入だ。

指揮:クリストファー・ホグウッド/エンシェント室内管弦楽団

指揮:ブリュッヘン/18世紀オーケストラ

指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック

ロジャー・ノリントンはロンドン・クラシカル・プレイヤーズとシュトゥットガルト放送交響楽団と2度にわたって「第九」を録音しているが、いずれも62分台前半で演奏している。彼が来日して「第九」を指揮する際、インタビューで「今日の『第九』は早く帰れるよ!」とジョークを飛ばしていたのが忘れられない。

指揮:ロジャー・ノリントン/シュトゥットガルト放送交響楽団

実際にはテンポのほかに第2楽章のリピートをするかしないかという問題もあるわけだが、単純に演奏時間だけを見た場合、「第九」はどこまで短くなるのだろうか。Naxos Music Libraryの音源で調べてみると、現時点で最短は2016年録音のシュタンゲル指揮タッシェン・フィルの演奏が57分34秒ですっ飛ばしている。なんと、58分の壁を破っているではないか。

指揮: シュタンゲル/タッシェン・フィルハーモニー

人類はどこまで「第九」を早く終わらせることができるのか。記録は破られるためにある。57分の壁を破る猛者の登場が待たれる(待たれません)。

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飯尾洋一 音楽ライター・編集者

音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...

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