読みもの
2019.04.30
飯尾洋一の音楽夜話 耳たぶで冷やせ Vol.13

シャーロック・ホームズの音楽帳 その1〈ヴァイオリン篇〉

人気音楽ジャーナリスト・飯尾洋一さんが、いまホットなトピックを音楽と絡めて綴るコラム。連載第13回は、ベイカー街の名探偵、シャーロック・ホームズについて!
ホームズがヴァイオリンの名手であることは、シャーロキアンの皆さんはご存知でしょう。ホームズの愛器は、なんとあのストラディヴァリウス……!? ホームズさん、一体その楽器をどこで手に入れたの?

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飯尾洋一
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飯尾洋一 音楽ライター・編集者

音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...

メインビジュアル:ベイカー街に立つホームズの銅像 © dynamosquito from France

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シャーロック・ホームズというと、だれの顔が頭に浮かぶだろうか。最近はBBC制作のテレビドラマ『SHERLOCK』のベネディクト・カンバーバッチが演じる現代版ホームズの姿を思い出す人が多いかもしれない。ガイ・リッチー監督のハリウッド映画『シャーロック・ホームズ』ではロバート・ダウニー・Jrがマッチョなホームズを演じた。しかしこのホームズはちっともヴァイオリンを弾いてくれない。ヴァイオリンを弾くホームズのイメージが即座に思い浮かぶのは、なんといってもジェレミー・ブレットが主演したグラナダテレビの「シャーロック・ホームズの冒険」だろう。NHKでも長年放映されたが、メインテーマがヴァイオリン曲だったことも「ホームズといえばヴァイオリン」という印象を強めてくれた。

トム・パービス(1888~1959)による、ヴァイオリンを弾くホームズ ©Tom Purvis

さて、原作であるコナン・ドイルの小説ではどうかといえば、ホームズは期待通り、ひんぱんにヴァイオリンを弾いている。仕事中毒のホームズが、たまにストレス解消や気晴らしに楽しむものといったら、ヴァイオリン、化学実験、そしてコカインといったところだ(ホームズは自分で注射している。19世紀末のロンドンですでにコカインが蔓延していたことがわかる)。ホームズのヴァイオリンの腕前は、ワトソンによれば「なかなかの腕前」であり「かなりの難曲も弾きこなす」という。

ホームズは即興演奏が得意?

ただし、ホームズは単に既存のレパートリーを上手に弾くというよりは、即興を好み、おそらくはそんな即興演奏から生まれた「自作」もレパートリーとして持っていたようだ。長篇『四つの署名』にはこんな場面がある。

ホームズは部屋の隅からヴァイオリンを取ってくると、ソファに長々と寝そべった私のかたわらで、夢見るような美しい旋律を低く静かに奏で始めた──即興演奏に卓抜した才能を持つホームズだから、彼が自分で作った曲なのだろう

(『四つの署名』角川文庫/駒月雅子訳)

 

なんと、ホームズの自作曲だ。もちろん、これは実は既存の名曲にすぎず、ワトソンがホームズの自作と勘違いした可能性もあるにはある。ただ、ホームズが常日頃から即興を楽しんでいたことはまちがいない。長篇『緋色の研究』で、ワトソンはホームズの腕前を讃えつつも、即興には閉口していることを告白している。

勝手に弾かせておくと、まず曲らしい曲を演奏しないばかりか、おなじみのメロディひとつ奏でようとしないのだ。夕方など、肘掛け椅子にもたれてヴァイオリンを膝に置き、目を閉じたまま適当にかき鳴らす。聞いているとその調べは、ときには朗々ともの悲しく、ときには幻想的でひどく陽気なこともある。明らかにそのときどきの彼の思考を反映しているのだが、考えごとをするための音楽なのか、それともたんなる気まぐれにすぎないのか、わたしにはわからなかった。いずれにせよ、この勝手な独奏をえんえんと聞かされるのはたいへんな苦痛だった。

(『緋色の研究』光文社文庫/日暮雅通訳)

ホームズは買い物上手? 愛用楽器はストラディヴァリウス

ところで、ホームズが所有している楽器がストラディヴァリウスであるということは、どれくらい有名なのだろうか。現代ではストラディヴァリウスの価格がすっかり高騰して、10億円以上の価格で取引されることも珍しくない。これくらいの価格になると、もはやヴァイオリニストが個人で所有できるものではなくなりつつあり、財団や企業が所有している名器を有名奏者に貸与するケースが増えている。

それをホームズはハドソンさんの下宿に置きっぱなしにして、ひょいひょいと弾いているわけだ。そして、この楽器の出どころははっきりしている。

ホームズはヴァイオリンの話に夢中になり、今持っているストラディヴァリウスは少なく見積もっても五百ギニーの価値はあるが、トテナム・コート通りのユダヤ人古物商からたったの五十五シリングで購入したのだと自慢げに語った。そこから話題はパガニーニへと移り、クラレット一本を一時間かけて味わうあいだ、奇才の作曲家でありヴァイオリン奏者であるその男の逸話をふんだんに語り聞かせてくれた。

(『シャーロック・ホームズの回想』角川文庫/駒月雅子訳)

 

ホームズが熱く語っているパガニーニ

さて、55シリングとは現代の価値にするといくらになるのだろうか。こういった貨幣価値は単純に換算できるものではなく、桁数を参考にする程度に留めておくとして、『バスカヴィル家の犬』(光文社文庫/日暮雅通)のあとがきにある数値によれば、1シリングは1200円。1ギニーは21シリングに相当する。

ということは、ホームズはユダヤ人古物商からストラディヴァリウスを6万6千円ほどで買ったことになる! 当時の価値は少なくとも500ギニーというから、これは1260万円にあたる。まあ、わからなくもない数字だ。投資のためではなく、演奏のために音楽家が購入できる最高額としてはありうる線だろう。

それにしてもホームズの買い物上手ぶりときたら。そのストラディヴァリウスはホームズの死後、どこに行ったのだろうか。ホームズには子どもがいなかったはずだが、相続人はだれなのか。今頃その相続人は濡れ手に粟……。

いやいや、そんな価格でストラディヴァリウスを買い叩けるとは話がうますぎる。いくら観察眼の鋭いホームズとはいえ、楽器鑑定の専門家ではなかったはず。
ひょっとして、ホームズは古物商のオヤジにまんまと一杯食わされたのでは?

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飯尾洋一 音楽ライター・編集者

音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...

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