ハチャトゥリアンの名曲誕生秘話を描く 映画『剣の舞 我が心の旋律』
音楽ジャーナリスト・飯尾洋一さんが、いまホットなトピックを音楽と絡めて綴るコラム。第21回は、7月31日より全国公開される映画『剣の舞 我が心の旋律』について。ハチャトゥリアンが一夜で書き上げたバレエ音楽《ガイーヌ》のうちの1曲である「剣の舞」誕生秘話を通してソ連時代の閉塞した音楽界を垣間見ることができる、ロシア音楽ファン必見の作品です。
音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...
締め切りに追われていたハチャトゥリアンが一夜で書き上げた「剣の舞」
ハチャトゥリアンの代表作といえば、「剣の舞」。これほど広く知られている曲もないだろう。あの野性的で熱狂的なリズムは一度聴いたら忘れられない。煽り立てるような曲想は、まるで後ろから猛スピードで追い立てられるよう。
© Harry Pot (1929–1996)/Anefo
事実、この曲を書いた際のハチャトゥリアンは〆切に追い立てられていた。有名なエピソードだが、バレエ《ガイーヌ》初演前夜になって、ハチャトゥリアンは急遽、新たに舞曲を一曲書かなければいけなくなった。ああでもない、こうでもないと、机をいろいろなリズムで叩きながら苦しんだ挙句、ギリギリになって絞り出されたのが「剣の舞」だ。
その「剣の舞」誕生の秘話を描いた映画『剣の舞 我が心の旋律』が、7月31日より新宿武蔵野館ほか全国で順次公開される。監督・脚本はユスプ・ラジコフ。ソ連時代のウズベキスタンに生まれたベテランである。ハチャトゥリアン役を演じたのはアンバルツム・カバニャン。寡黙で陰のあるイケメンだ。私たちにとってハチャトゥリアンといえば、指揮者として晩年に来日した際の恰幅のよい姿を思い起こすが、「剣の舞」作曲当時は30代。まだまだ若々しくてもおかしくない。「カッコいいハチャトゥリアン」というキャラ設定に目を見張る。
ショスタコーヴィチやオイストラフも登場
もちろん映画なので、これは事実に基づくフィクション。架空の登場人物も出てくるし、史実をアレンジしている部分もある。しかし、ソ連時代の音楽界の閉塞的な雰囲気はよく伝わってくるのではないだろうか。「剣の舞」誕生のエピソードを通して、当局が求める社会主義リアリズムと芸術家たちがどう折り合いをつけてきたかという物語が透けて見える。
クラシック音楽ファンにとって見逃せないのは、端役ながらショスタコーヴィチとオイストラフが登場する場面だろう。このショスタコーヴィチが本物そっくり。
© Roger & Renate Rössing, Deutsche Fotothek.
© Anefo / Punt
ハチャトゥリアンとショスタコーヴィチとオイストラフの3人がともに旅をしたのは史実である(設定は微妙に変わっているが)。映画のなかでの3人は打ち解けた様子で会話する。オイストラフはショスタコーヴィチに向かって、交響曲第7番《レニングラード》について、「第1楽章はナチス侵攻前に書いていたはず。あの怒りはヒトラーではなくスターリンに向けていたのだろう」と語る。この交響曲は公的にはナチス・ドイツとの戦いを描いたことになっているが、本当は体制を批判しているのだろうと指摘するのである。表向きは体制に迎合しながらも、しばしばその裏に真意を忍ばせていた「二重言語」の作曲家ショスタコーヴィチの姿が、さりげない会話のなかから浮かび上がる。
ショスタコーヴィチ/交響曲第7番《レニングラード》
「剣の舞」の人気があまりに高くなったため、ハチャトゥリアンは後年この曲を書いたことを強く後悔することになった。もっと重要な大作をいくつも書いたはずなのに、いつも自分の名前には一夜で書きあげた「剣の舞」が付いて回る。そんな状況に嫌気がさしても不思議はない。
この映画でもハイライトシーンを飾るのはもちろん「剣の舞」だが、ひとつ救いなのは、最後にハチャトゥリアンの功績を称えるエピローグ場面で高らかに鳴らされるのが、交響曲第2番だという点だろうか。エンドタイトルまでこの交響曲が続くので、もしかするとこの映画でいちばん印象に残る音楽はこの曲かもしれない。
ハチャトゥリアン/交響曲第2番
7月31日(金)新宿武蔵野館ほか全国順次公開
監督:ユスプ・ラジコフ
出演:アムバルツム・カバニアン、ヴェロニカ・クズネツォーヴァ、アレクサンドル・クズネツォフ、アレクサンドル・イリン、イヴァン・リジコフ、インナ・ステパーノヴァ、セルゲイ・ユシュケーヴィチ
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