新帝王の座についたキリル・ペトレンコ、ベルリン・フィルとの初シーズンに向けて堂々たる所信表明
4月29日に行なわれたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団2019/2020年シーズンの記者発表会。8月に首席指揮者に就任するキリル・ペトレンコが登壇し、これからのベルリン・フィルとの共同作業について語りました。
ベルリン・フィルへの初登場から、わずか3回の共演で首席指揮者に選ばれたというミステリアスな天才。ベルリン・フィル以外のオーケストラとの共演時もチケット完売続出という今、もっと注目すべきマエストロについてONTOMOエディトリアルアドバイザーの林田直樹さんが詳しく解説!
1963年埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業、音楽之友社で楽譜・書籍・月刊誌「音楽の友」「レコード芸術」の編集を経て独立。オペラ、バレエから現代音楽やクロスオーバ...
キリル・ペトレンコ。この名前だけは、クラシック音楽に詳しくなくとも、カルチャー全般に興味をお持ちのかたなら、ぜひとも覚えておきたい名前である。
なぜなら、クラシック音楽界の帝王の座ともいうべきベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の新しい時代を担うリーダーとして、4年も前から首席指揮者に就任することが決まっていたからである。
世界最高のオーケストラのひとつであるベルリン・フィルの動向を知ることは、クラシック音楽の未来そのものを占うことでもある。
知る人ぞ知る天才
2015年にベルリン・フィルがサイモン・ラトルの後継者にキリル・ペトレンコを指名したとき、日本のクラシック・ファンの反応はごく一部の玄人筋の興奮を除いて「え、その人、誰?」という反応ではなかったろうか。それも仕方がないだろう。キリル・ペトレンコはそれくらい、レコーディングのほとんど存在しない、来日公演もない、知る人ぞ知る存在だったのだから。
2017年秋にペトレンコはミュンヘンのバイエルン国立歌劇場音楽監督として、初めてその姿を日本のファンの前に現した。そのとき私も「タンホイザー」で初めて生演奏に接したが、噂をはるかに超える、これはとてつもない天才指揮者だと思った。
あの序曲の冒頭の旋律がだんだんと大きく膨らんでいき、オペラの最後のクライマックスでもそれが壮大に回帰するが、あれを単にワーグナーを雄大な音楽として立派にやって客をカタルシスに導くのではなく、死と生の本質につながる「祈りの音楽」としての性格を、細やかで質の高い響きによって示していたことに、心を打たれた。
寡黙なペトレンコが語りだす新しい時代
そのペトレンコがついに動いた。
2019年9月からいよいよベルリン・フィル首席指揮者としての新しいシーズンが始まる。そのラインナップの記者発表が、4月29日におこなわれたのである。5月10日にはベルリン・フィルはその模様を公式Youtubeチャンネルにアップした。彼の自信に満ちた、そして誠実で情熱あふれる言葉を聞くことができる(日本語字幕付き)。
これを見ると、20分ものあいだ、ペトレンコはノンストップで堂々と所信表明演説を述べ、今後のベルリン・フィルとの共同作業について、大きな方針を示している。
真のリーダーのやるべきことは、出るべきところに出て、ひとかどの演説をぶち、その言葉によって多くの人を魅惑し、夢と希望のありかを示すことにある。それができない者は、どんなに有能であろうとも、人を引っ張っていくことはできない。
ペトレンコには、実は一抹の不安があった。彼は自分自身の芸術について、その謙虚さゆえ、多くを語ろうとしないことで有名だった。言葉は少なく、音楽のみによって、語ろうとする人であった。神秘のヴェールに包まれていた。
ところが、どうだろう。ベルリン・フィル首席指揮者という重責を与えられたペトレンコは、今後自らが取り組んでいくオーケストラ音楽の方向性を明確に示し、堂々たるリーダーシップを、言葉の力によって天下に知らしめたのである。
メディア時代だからこそ選ばれた真の実力者
実はペトレンコにはもうひとつ、不安があった。それは、カラヤンやラトルやアバドのように、メジャー系のレコード会社から、CDをたくさん出していないことである。メディアへの発信力は帝王の条件でもある。
しかしこの点においても、ペトレンコには大きな可能性があると私は思った。なぜなら、インターネットによる音楽メディアの激変のこの時代、ベルリン・フィルは特定のレコード会社との緊密な関係ではなく、自らメディアを立ち上げ、レーベルをつくり、積極的にネットを使って直接、私たち音楽ファンとのコンタクトを図ろうとしているからだ。
メディア戦略という点においても、ベルリン・フィルは引き続き世界のオーケストラ界のリーダーたろうとしており、ペトレンコを全面バックアップする姿勢を明らかにしたのだ。
何よりも重要なのは、ベルリン・フィルが知名度や人気ではなく、音楽的な実力と、未来への可能性という純粋な動機によって、巨大マーケットである日本からすればほぼ無名のキリル・ペトレンコを選択したということだ。そこに音楽家集団としての良心が感じられる。
ペトレンコとベルリン・フィル、6つのポイント
ペトレンコが、この記者会見で述べたことの重要なポイントを下記に示しておこう。
1. ベートーヴェン・イヤーに取り上げる3つの大作
2020年のベートーヴェン生誕250年に向けて、交響曲第9番「合唱付き」、「ミサ・ソレムニス」、オペラ「フィデリオ」という3大作品を取り上げること。そこには自由と平和という、この現代におけるもっともアクチュアルなテーマが込められている。オペラを得意とし、声楽の扱いに長けているペトレンコとしても、その力は遺憾なく発揮されるに違いない。大いに楽しみである。
ペトレンコ指揮ベルリン・フィルによるベートーヴェン:交響曲第7番(2018年8月のライブ映像)
就任演奏会でベートーヴェンの「第9」を選んだことには、非常にシンプルで、しかし真摯な理由があります。
というのは、もし人類を代表する音楽、人間の酸いも甘いもを包括し、表現した音楽というものがあるならば、それは「第9」だと思われるからです。それが、私とベルリン・フィルの新しい時代のスタートになるべきだと考えました。
このシーズンでは、3つのメッセージをもっ3つの作品が演奏されます。歓喜(Freude)を表現した「第9」、自由(Freiheit)を表現した「フィデリオ」、平和(Frieden)を表現した「ミサ・ソレムニス」です。この「ベートーヴェンの3つのF」は、我々の時代にとって、非常にアクチュアルなテーマだと思います。
「ミサ・ソレムニス」で〈神よ、平和を与えたまえ〉と歌われるとき、その平和は、(戦争と対立の時代に生きる我々にとっては)当たり前のものではなく、主体的に獲得しなければならないものなのです。
2. ドイツ・オーストリア系の新たなレパートリーを開拓
20世紀音楽のレパートリーに新しい風を持ち込むこと。そこで特に名前が挙がったのは、スーク、B.A.ツィンマーマン、ヒンデミット、ハルトマン、ヴァイルなど。これまでのベルリン・フィルではあまり取り上げられてこなかったドイツ・オーストリア系の重要な作曲家たちが、こうしてどんどん取り上げられることで、オーケストラ界が活気づくに違いない。
3. ロマン派の系譜を継ぐ20世紀ロシア作品の充実
20世紀のロシアの作曲家にも力を入れること。特に名前が挙がったのは、ラフマニノフ、そしてグラズノフ、スクリャービン、グリエール。どれも、ロマン派の流れを継承する優れた作品群が多く紹介されることになるだろう。
ペトレンコ指揮ベルリン・フィルによるスクリャービン:《法悦の詩》(2012年12月のライブ映像)
4. ラトルから受け継いだマーラー演奏の発展
マーラーの演奏に関して、アバドやラトルが築き上げてきた伝統をさらに継承・発展させること。ラトルがベルリン・フィルとの間に宿命的な意味を見出し、任期の最後に総まとめの作品として演奏した「交響曲第6番」を、再び自らの指揮で取り上げる。これは前任者ラトルへの敬意、そして挑戦といってもいいくらいのインパクトがある。よほど自信がなければできないことである。
5. 教育プログラムで取り上げるのはプッチーニ《修道女アンジェリカ》
ラトルが始めた教育プログラムの演目に、プッチーニのオペラ《修道女アンジェリカ》を取り上げること。この演目選定は素晴らしい。シンフォニー・オーケストラにとって、プッチーニはほとんど馴染みがない。ベルリン・フィルがプッチーニをやることにより、彼らの20世紀音楽への視点は大きくリフレッシュされる。音楽的メリットは計り知れない。若い世代にプッチーニの暗く切実な(しかし短い)ドラマを選ぶという姿勢も興味深いではないか。
前任のサイモン・ラトルがベルリンにある6つの学校のオーケストラを指揮した教育プログラムの様子
6. 積極的なレコーディング活動
レコーディングに対しては慎重な姿勢で知られるペトレンコだが、今後は積極的におこなう。その第1弾として、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」がリリースされる。そのダイナミックで緊迫感あふれる演奏は、今後のペトレンコ&ベルリン・フィルの前途洋々たる未来を予感させるに充分な出来である。
キリル・ペトレンコが語る、チャイコフスキーの交響曲第6番《悲愴》
この秋には、ズービン・メータとの来日公演が予定されているベルリン・フィルだが、ペトレンコとの共同作業の行方にも、ぜひとも注目していきたい。
ペトレンコさんが首席指揮者に選ばれてから、ほぼ4年が経とうとしていますが、新シーズンから、ようやく彼を首席指揮者に迎えることができます。彼との波長は完璧に合い、ショックのように恋している状態がずっと続いています。
私たちは彼とともに、私たちが音楽家になった理由を実現したいと考えています。つまり聴く人々が、コンサートの前と後とでは、別の人間になっているような演奏をすることです。聴衆がホールから出てきたとき、彼らのなかで日常を超える、何か特別なことが起こっていることを、彼とともに目指していきたいと思っています。
2019年8月23日(首席指揮者就任演奏会)
ベルク:「ルル」組曲
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」
独唱:マルリス・ペーターゼン、エリーザベト・クルマン、ベンヤミン・ブルンス、ユン・クヮンチュル
ベルリン放送合唱団
8月24日(ブランデンブルク門前の野外コンサート)
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」
独唱:マルリス・ペーターゼン、エリーザベト・クルマン、ベンヤミン・ブルンス、ユン・クヮンチュル
ベルリン放送合唱団
12月29、30、31日
ガーシュウィン:「パリのアメリカ人」
バーンスタイン、ポーター、レーヴェ、ヴァイルの作品
独唱:ディアナ・ダムラウ
2020年1月9、10、11日
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番
スーク:交響曲第2番「アスラエル」
ピアノ:ダニエル・バレンボイム
1月23、24、25日
マーラー:交響曲第6番
2月12、13、14、15日
ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲
B・A・ツィンマーマン:「アラゴアーナ」
ラフマニノフ:交響的舞曲
4月17、19日
ベートーヴェン:「フィデリオ」(演奏会形式上演)
独唱:マルリス・ペーターゼン、ハンナ・エリーザベト・ミューラー、ピーター・ローズ、マシュー・ポレンザーニ、ヴォルフガング・コッホ、ベルリン放送合唱団ほか
2019年8月25日
ベルク:「ルル」組曲
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」
独唱:マルリス・ペーターゼン、エリーザベト・クルマン、ベンヤミン・ブルンス、ユン・クヮンチュル
ベルリン放送合唱団
8月26日
シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー:交響曲第5番
ヴァイオリン:パトリシア・コパチンスカヤ
8月28日
ベルク:「ルル」組曲
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」
独唱:マルリス・ペーターゼン、エリーザベト・クルマン、ベンヤミン・ブルンス、ユン・クヮンチュル
ベルリン放送合唱団
8月29日
シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー:交響曲第5番
ヴァイオリン:パトリシア・コパチンスカヤ
8月31日
ベルク:「ルル」組曲
ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」
独唱:マルリス・ペーターゼン、エリーザベト・クルマン、ベンヤミン・ブルンス、ユン・クヮンチュル
ベルリン放送合唱団
9月1日
シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー:交響曲第5番
ヴァイオリン:パトリシア・コパチンスカヤ
2020年2月17日(ハンブルク、エルプフィルハーモニー)
2月18日(ハノーファー、コングレス・ツェントルム)
2月19日(ケルン、フィルハーモニー)
2月20日(フランクフルト、アルテ・オーパー)
2月21日(ドレスデン、クルトゥーアパラスト)
ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲
B・A・ツィンマーマン:「アラゴアーナ」
ラフマニノフ:交響的舞曲
2020年4月4、7、13日
ベートーヴェン:「フィデリオ」(演奏会形式上演)
独唱:マルリス・ペーターゼン、ハンナ・エリーザベト・ミューラー、ピーター・ローズ、マシュー・ポレンザーニ、ヴォルフガング・コッホ、コーアヴェルク・ルーアほか
4月6日
マーラー:交響曲第6番
4月10日
ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス
独唱:ハンナ・エリーザベト・ミューラー、オッカ・フォン・デア・ダメラウ、マシュー・ポレンザーニ、タレク・ナズミ、コーアヴェルク・ルーア
5月1日(テルアビブ、チャールズ・ブロンフマン・オーディトリアム)
マーラー:リュッケルト歌曲集
ブルッフ:「コル・ニドライ」
マーラー:交響曲第4番
独唱:クリスティアーネ・カルク、エリーザベト・クルマン
ヴィオラ:アミハイ・グロス
5月2日(テルアビブ、チャールズ・ブロンフマン・オーディトリアム)
マーラー:交響曲第6番
5月3日(エルサレム、スルタンのプール)
マーラー:リュッケルト歌曲集、交響曲第4番
独唱:クリスティアーネ・カルク、エリーザベト・クルマン
5月6日(ブダペスト芸術宮殿)
5月7日(プラハ、スメタナホール)
5月9日(ウィーン楽友協会)
5月11日(アムステルダム、コンセルトヘボウ)
5月14日(ブリュッセル、パレ・デ・ボザール)
5月15日(ルクセンブルク、フィルハーモニー)
マーラー:リュッケルト歌曲集、交響曲第4番
独唱:クリスティアーネ・カルク、エリーザベト・クルマン
5月10日(ウィーン楽友協会)
5月13日(アムステルダム、コンセルトヘボウ)
マーラー:交響曲第6番
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