カプースチンを偲ぶ——冷戦下のソ連で生み出した「クラシックの形式をもったジャズ」
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...
作曲家でピアニストのニコライ・カプースチンさんが、7月2日に他界されました。
1937年ウクライナ生まれのカプースチンさんは、モスクワ音楽院で学び、1960年代以降、ジャズとクラシックが融合した作品——ご本人によれば、「クラシックの形式をもったジャズ」——を数多く世に送り出しました。すべてが楽譜に記されているのに、その音楽はジャズそのものであるという、一つのスタイルを確立した人物です。
訃報をうけ、一つの時流が生んだ象徴的な音楽家が一人失われ、また時代が一歩進んだと思わずにいられませんでした。
私自身、直接カプースチンさんにお会いする機会はありませんでした(十数年前、モスクワで取材を試みたのですが、ちょうど休暇で森の奥にいるということで叶わなかった)。
しかし、かわりに、カプースチン作品を世界に広めることに貢献したピアニスト、ニコライ・ペトロフ(1943-2011)さんに、カプースチンさんについてお話を伺ったことがあります。
ニコライ・ペトロフの弾くカプースチンの「ピアノ・ソナタ第2番」
二人はモスクワでの学生時代からの盟友。あるときカプースチンさんの作品を聴いたペトロフさんは、「自分が彼の音楽を西洋に広めるための“小さな窓”になろうと思った」と語っていました。
ペトロフさんの回想で印象に残ったのは、彼自身が子どもの頃、ジャズに興味を持って、「真夜中、部屋を閉め切り、ラジオでアメリカのジャズ番組をこっそりと聴いていた」という話です。時代は東西冷戦の真っ只中。ソ連では、アメリカのジャズなど「禁止されているに等しかった」といいます。
この話を思い出すにつけ、政治的軋轢を乗り越えた良い音楽への憧れ、芸術家の強い精神が生んだ作品こそ、カプースチンの音楽だったのかもしれないと感じます。
ペトロフさんは2011年に他界、そして今、カプースチンさんも旅立たれました。あの頃のソ連で青春時代を送った音楽家が、また一人いなくなってしまいました。
戦争を経験した作曲家の作品には暗いものが散見されますが、カプースチンさんは自作について、「一番重要なのはオプティミズムを基本としていること」だと話していました。そのポリシーにも、時代背景に基づく一つの精神が反映されているのかもしれません。
カプースチン plays カプースチン
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