もしも手が小さかったらピアノ曲は変わっていた?~ラフマニノフの誕生日に考えたこと
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...
先日とある仕事の打ち合わせで、手がものすごく大きい男性にお会いしました。
体格は普通のすらっとした感じ、背の高さも標準くらいなのだけれど、とにかく手が大きい。ピアノを弾く人ならうらやましくなる手と指です。
しかし、その方曰く「自分はピアノを弾かないしスポーツもやらないから、何もいいことがない、むしろ不便ばかりだ」とのこと。
いや、不便って……手が大きければ、荷物を持つときもがっしりつかめそうだし、つかみ取りみたいな場面でたくさんものが取れそうだし(?)、崖から落っこちそうになったときにも、ぐいっとつかまって生き残れるかもしれないじゃないですか。
そう言うと彼は「いや、手が大きいだけで握力が強いわけではないので、全然意味ないです」とのこと。
それでは一体何が不便なのかと聞いたら、
「隙間に落ちたものが拾えない。いちいち全部どかさないといけなくて、ほんとうに面倒くさい。そしてなによりイヤなのは、コップが洗いにくいこと」
……なのだそうです。コップにちっとも手が入らないんですって。
ある人が渇望する美点も、ある人にとっては不要でしかないという。これぞ人生。
*
ところで、大きな手といえば、昨日4月1日が誕生日だったラフマニノフです。ドから1オクターブ半上のソまで指が届いたといわれています。そして、ピアニストとしても優れていた。
ラフマニノフ自作自演の音源「ピアノ協奏曲第3番」第3楽章
そのため、手の小さな人がラフマニノフの曲を弾くには、いろいろな工夫が必要なことがあります(指使いとか、音を分散させるとか)。
そんなことを考えていて、ふと思いました。
ラフマニノフは、頭の中でイメージした理想の響きを楽譜に書いていった。その意味で、もしも自分の手が小さくても、同じピアノ曲を書いたのだろうか、ということ。
普通に考えれば、手が小さければ、そんな曲は書かなかったと思いますよね。和音のいくつかの音はなくなっていたかもしれない。
でも、たとえばシューベルトなんかは「さすらい人幻想曲」を書いて自分でうまく弾けず、「こんなもの悪魔に食わせてしまえ」と言ったというじゃありませんか。自分で弾けなくても、理想を追求して曲を書くことが、作曲家の欲望の根底にあるとすれば……どうなのだろう。
シューベルト「さすらい人幻想曲」(ピアノ:アルフレッド・ブレンデル)
などという答えのないことを考えながら、ラフマニノフ148回目のお誕生日を心の中で祝いました。
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