ピアノ演奏という芸術表現に筋肉は必要? 三島由紀夫の感性と筋肉にまつわる主張
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...
こちらのコラム、先に2回連続で三島由紀夫が登場していますが、驚くなかれ、なんと今回も三島由紀夫の話です。
最近、第二次三島ブーム的な感じで、いろいろ読み返したり、未読のものを読んだりしておりまして、あと少しお付き合いいただけましたら。それにしても、若い頃に少し無理して読んだ本も、今読み返すと驚くほどすんなりと心に入ってきて、びっくりしますね。
そんななか、このごろの私が「そうなのか……本当にそうなのか……」と心の中で問い続けているのが、筋肉と文を書くということについての三島の主張です。
自分の貧弱な体に劣等感を持ち続けていた彼は、30歳になってボディビルを始めています。そしてそれから1年ほどの頃に書いたあるエッセイの中で、こんなことを書いています。
鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。(…)精神の羞恥心が肉を身に纏わせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である
——「ボディビル哲学」より
この手の主張をしたためたエッセイを、この頃以降の三島はあちこちに書いています。やがてボクシングも始め、その「美とエレガンス」に魅せられて観戦記をたくさん寄稿するんですね。
これらを読んでいると、鋭く感情豊かで、節度と品のある文を書くためには、筋肉モリモリじゃないといけないような気がしてくる……。
もちろん、“隆々たる筋肉が弱気な心をうちに隠している例”もたくさんあるとしつつ、この頃から彼にとって、芸術はスポーツの、スポーツは芸術の“衛生学“だという認識になったようです(こちらは「太陽と鉄」の中の記述)。そんなわけで彼はこの後、ボディビルを続けることになるのでした。
それでやっぱり、ここでピアニストのことを思うわけです。
ピアノ演奏という芸術表現に、筋肉は必要なのだろうか? と。
そもそもものを書くことについては、たくましい筋肉は必要じゃありません。でもピアニストの場合、むしろかなり、筋肉が必要じゃないですか。手や腕なんて典型的で、優れたピアニストの小指の付け根の筋肉のモリモリ具合など、ちょっとほれぼれするほどです。
さらにいえば、背中の筋肉や体幹がしっかりしていること、そして細やかなペダリングのため足がしっかりしていることは、遠くまで響く音(単に大きい音という意味ではありません)を鳴らすには欠かせないものでしょう。
筋肉をつければ技術的にもよいうえ、「鋭い感性を肉で包む」こともできる! ピアニストのみなさんも、ボディビル……とまでいかずとも、みんなで筋肉をつけようではありませんか!
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