読みもの
2018.06.04
音楽ことばトリビア ~イタリア語編~ Vol.10

ああ、信じられないわ 花よ、こんなにも早くしおれてしまうなんて

クラシック音楽と語学は切っても切り離せないもの。「音楽ことばトリビア」は各国語に精通したナビゲーターの皆さんが、その国の音楽とことばをテーマに綴る学べるエッセイです。

イタリア語編ナビゲーターは、20年間イタリア・ミラノに拠点を置いていたオペラ・キュレーターの井内美香さん。第7回はベッリーニ作曲《夢遊病の娘》から。

井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

イラスト:本間ちひろ

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Ah! non credea mirarti sì presto estinto, o fiore.

アァ!ノン・クレデア・ミラルティ・スィ・プレスト・エスティント、オー・フィオーレ

ああ、信じられないわ 花よ、こんなにも早くしおれてしまうなんて

エンゲージ・リングを交わし正式な婚約者となったアミーナとエルヴィーノ。2人は明日、教会で結婚式をあげることになっています。前の晩、エルヴィーノは「この花を明日まで僕だと思っていておくれ」と言ってアミーナにスミレの花束を贈ります。

ところがその夜、この村を訪れて一晩泊まっていた貴族の男の部屋にアミーナが入り込んで、ソファで寝ているところを村人たちが発見します。知らせを受けたエルヴィーノも駆けつけ、もともとやきもち焼きの彼は、アミーナが自分を裏切ったと信じて彼女をなじります。

実は、アミーナには罪はありませんでした。なぜなら彼女は眠っている間に、自分では気がつかないで起きている人のように歩き回る〈夢遊病〉だったからです。アミーナも、村人たちも、そんな病気の存在すら知りませんでした。幸いなことに、貴族の男の知識が問題の解決に役立ち、最後にはアミーナとエルヴィーノは晴れて結ばれます。

《夢遊病の娘》初演時の舞台美術のスケッチ。屋根の上には、眠りながら歩いているアミーナが描かれている。

このアリア「ああ、信じられないわ」は、フェリーチェ・ロマーニ台本、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ作曲の《夢遊病の娘》の第2幕にあります。愛するエルヴィーノの愛を失ってしまったと信じたアミーナが、夢遊病で徘徊しながら歌うアリアです。せめて彼の面影を呼び戻そうと、昨日贈られたスミレの花束を取り出した彼女は、「ああ、信じられないわ、花よ、こんなにも早くしおれてしまうなんて。愛と同じようにはかなく、お前はしおれてしまった。たった1日しか続かなかった愛のように…」と嘆きます。(井内百合子訳)

イタリア語は「Ah! non credea 〜とは思っていなかった mirarti お前を見つめる こんなにも presto早く estintoしおれた, o fiore ああ、花よ」となります。スミレの花に話しかけながら、あっという間に失われた愛を嘆いているのです。
文中のは「はい=yes」の意味のではなく、così(このように)の省略形としてのなのでご注意ください。【文語、古語】ですが、オペラではよく使われます。どちらの意味かは文脈から判断します。
発音はyesの意味のと同じで、「シ」ではなく「スィ」に近いです。上下の歯を軽くあわせて[s]を出した後で母音の[i]をしっかり響かせてください。

シチリア出身のオペラ作曲家ベッリーニは気品のある旋律美で知られ、出身地の名前をとって「カターニャの白鳥」と呼ばれていました。ロマン派前期に活躍し、30代の若さで世を去っていること、そしてあえかな雰囲気を湛えた音楽を書いたことから、ピアノの詩人ショパンと比較されることも多いです(ベッリーニはショパンより10歳ほど年上)。

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801 - 1835)33年という短い生涯に《夢遊病の娘》のほか、《カプレーティとモンテッキ》《ノルマ》など数々の名作オペラを残した。
フェリーチェ・ロマーニ(1788-1865)《夢遊病の娘》だけでなくベッリーニのほとんどのオペラ作品や、ロッシーニやドニゼッティにも台本を提供した人気の台本作家。

ベッリーニはヒロインの心理を描くのが巧みでした。シンプルに感じられる旋律は推敲に推敲を重ねたもので、長いフレージングは名歌手でないと真の美しさを表現できないと言われています。
そのベッリーニの作曲活動にミューズとして大きな役割を果たしたのが、ベル・カント(「美しい歌」の意味)と呼ばれる歌の名人芸の時代を代表するソプラノ歌手のジュディッタ・パスタです。パスタは、ベッリーニと知り合う以前から、音域が広い声と役柄の深い表現によってヨーロッパに君臨するスター歌手でした。

『夢遊病の女』初演時のジュディッタ・パスタ(1797-1865)のスケッチ。(上)
ドイツ人石版画家ヨーゼフ・クリーフーバー(1800-1876)によるジュディッタ・パスタの肖像のリトグラフ。(右)

今回、取り上げたアリア「ああ、信じられないわ」は、オペラのフィナーレの直前に歌われます。悲しみの場面から一転してアミーナへの誤解が解け、彼女の愛と善良さが勝利を収めます。最後にアミーナが幸せを歌うアップテンポの曲では、エルヴィーノや他の登場人物たちは合唱と一緒に彼女の背景となり、プリマ・ドンナの1人舞台が繰り広げられます。アミーナ役は実力のある歌手にとっては大変やりがいのあるオペラでしょう。
《夢遊病の娘》を創唱したパスタのような大歌手の録音が残っていないのは残念です。しかしそれゆえに、彼女がこれらの曲にどのような意味を込めて歌ったのか、想像はいやが上にも掻き立てられるのです。

「ああ、信じられないわ」の楽譜と歌詞が刻まれた、シチリア島カターニャにあるベッリーニの墓碑。
井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

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