スルバランの無音を聴く
『アート鑑賞、超入門!』『現代アート、超入門!』等の著作で、読者をアートの世界へ誘うアートライター・藤田令伊さんがONTOMOに登場。毎回さまざまなアート作品から、「絵に音楽を聴く」楽しみをご紹介します。
アートライター、大正大学非常勤講師。単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる...
音楽ではなく美術をフィールドにしている私にONTOMOから執筆のご依頼があったのには当初戸惑った。私はとくに音楽に詳しいわけでもないし(おそらく読者諸氏のほうがはるかに詳しいはず)、何が書けるか、いまもって心許ないのだけれど、「音楽」と堅苦しく考えず、「音」と関係のある美術ネタであればそれでよろしいということで、やらせていただくことになった。どうぞよろしくお願いします。
さて記念すべき第1回は、国立西洋美術館で開催中の「プラド美術館展」(~5/27。その後、兵庫県立美術館に巡回、6/13~10/14)に関連した話題にしようかと思う。この展覧会は副題に「ベラスケスと絵画の栄光」とあるように、ベラスケスが目玉となっており、大作《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》などが話題をさらっている。だが、ここで私が取り上げたいのはスルバランである。
展覧会にはセビリアで活躍した画家フランシスコ・デ・スルバランの《磔刑のキリストと画家》という絵が出品されている。ご覧のようにやせ細ったイエス・キリストが4本の釘で張りつけにされており、その足元で禿頭の一人の男がイエスを見上げている場面となっている。背景にはほとんど何も描かれておらず、画面下方にここがゴルゴタの丘であることを示唆する岩がわずかに認められる程度である。アイテムがごく少ない絵なので、おのずとイエスと男の関係だけが浮かび上がる。イエスはすでにこと切れているらしく、体は灰色に変色し生気なくうなだれている。男は片手を胸に置き、イエスの死を悼んでか、あるいは救世主の復活を祈ってか、ひたすらにイエスを見上げている。
美術鑑賞はふつう「見る」ものである。描かれているさまざまなモチーフを見て、それぞれなりに何かを感じ取る。しかし、美術鑑賞は「見る」だけに限らない。当サイトにちなんでいえば「聴く」こともできる。この絵も「聴く」ことができる。読者諸氏はこの絵を見て、どんな「音」を聴くだろうか。ちょっと試していただきたい。宗教色の濃い絵なので、オラトリオが頭に浮かんできたという人がいるかもしれない。あるいは、パイプオルガンの重厚な調べを連想する人もいるかもしれない。いやチェロの野太い音色が似合うとみる向きがあってもおかしくない。いろいろ「聴く」こともまた美術鑑賞の愉しみ方である。
私の場合どうかというと、ひねくれたことをいうようだが、この絵に私が聴くのは「無音」である。無音を聴くというのも変なのだが、そうというほかない感じを抱くのだ。私がこの絵を初めて見たのは、いまから21年前の3月、プラド美術館でのことだった。まだ春先だというのにマドリードは汗ばむ暑さだった。美術館のなかにまで暑さが沁み込んでくるようで、館内はざわめきが絶え間なく響いていた。そのため、どこか落ち着かない心持ちのままプラドの至宝の数々を見て回っていたうちにこの絵と遭遇した。たいした大きさではないのに、わけ知らず惹きつけられ、私は絵の世界に引き込まれた。そして、ふと気がついたら周囲から音が消えていたのだった。
改めて見ても印象は変わらない。静か、ではなく、無音なのだ。この絵の宇宙にはイエスと男しかおらず、ほかのものは一切不要、音ですら余計な存在なのである。信仰の極致とはこういうものかと思わせるものがある。
男の手許をよく見ると、パレットを持っている。かつて修道院には絵を描く役目の修道士もいたから、この男もそういう人物であろうか。あるいは、男はスルバランの自画像ともいわれる。いずれにせよ、イエスと自分だけの世界をストイックに構築している男は、ほかの何物にも心を奪われることなく、ただひたすらイエスにすがり、法悦の表情を浮かべている。絵のなかで光の射してくる方向を考えると、男は眩い逆光のなかにイエスのシルエットを見ているはずである。
本作に限らず、スルバランの作品は無音を感じさせるものが多い。それはおそらく、スルバランの厳格なまでの信仰心の反映なのであろう。そして、その透徹した精神性が無音の世界として見る者に感じられるのであろう。
スルバランは晩年、不人気をかこった。スルバランの厳しい絵画世界は、現実の過酷さに苛まれていたセビリアの人々には辛すぎたのだ。人々はもっぱら甘美なムリーリョの絵に救いを求めた。晩年のスルバランに絵の注文はほとんどなかったという。
だが、スルバランの絵は時を越え、いまを生きる私たちの心にも響くものがあると思う。私たちはスルバランの絵のように無心に、ひたすらに何かと向き合うことをしているだろうか。欲望や騒音にまみれ、押し流されるように生きているばかりになっているのではないのか。現代が喧噪の時代であればあるほど、スルバランの無音は私たちに鋭く内省を促してくる。
大勢の来館者が訪れている展覧会場では難しいかもしれないが、一度、スルバランの無音に耳を傾けてもらいたい。
東京展
会期: 2018年2月24日(土)~ 5月27日(日)
会場: 国立西洋美術館(上野公園)
〒110-0007 東京都台東区上野公園7-7
料金: 一般1,600円(当日)/1,400円(前売り・団体)
大学生1,200円(当日)/1,000円(前売り・団体)
高校生 800円(当日)/600円(前売り・団体)
兵庫展
会期: 2018年6月13日(水)-~10月14日(日)
会場: 兵庫県立美術館(神戸市)
〒651-0073 兵庫県神戸市中央区脇浜海岸通1丁目1番1号[HAT神戸内]
料金: 一般 1,600円(当日)/1,400円(前売り・団体)
大学生 1,200円(当日)/1,000円(前売り・団体)
70歳以上 800円(当日)/700円(団体)
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