ラヴェルが隅々までこだわった家~改築、異国趣味、庭造り……家にも完璧主義を発動!
46歳にして初めての一人暮らしを始めたラヴェルの家には、完璧主義、異国趣味、新しいもの好きなど、ラヴェルの性分が表れています。代表作《ボレロ》をはじめ、数々の名曲を生み出した場所でもあるパリ郊外のおうちを紹介! 改築を重ねて庭まで手作りしたという家で、ラヴェルはどのように過ごしていたのでしょうか?
1993年生まれ、東京都出身。2022年、第1回ひろしま国際指揮者コンクール(旧:次世代指揮者コンクール)優勝。パリ地方音楽院ピアノ科、ミュンヘン国立音楽演劇大学古楽...
モンフォール=ラモリにあるラヴェルの家
音楽家と「家」に関する話題は、実はたくさんあります。ベートーヴェンのように何十回も引っ越しをする人もいれば、ミヒャエル・ハイドンのように、いつも飲み歩き、いつ客人が訪ねても留守にしているような人もいました。
そんな中でも、今回はラヴェルの家について紹介したいと思います。彼はパリから離れた小さな田舎街モンフォール=ラモリにある家に住み、ここで数多くの傑作を完成させました。ひとまず、この家で書かれた曲を聴いてみてください。きっと聴いたことのある曲があるはずです!
ラヴェルがモンフォール=ラモリの家で作曲/編曲した曲
ラヴェル:《ボレロ》、「ピアノ協奏曲」より第3楽章、ムソルグスキー(ラヴェル編):《展覧会の絵》より「プロムナード」、「キーウの大門」
緻密で完璧なオーケストレーションで同時代の作曲家を圧倒したラヴェル。ストラヴィンスキーは、スイスにルーツを持つラヴェルのことを、時計技術で世界最高の技術を持つスイスになぞらえて「スイス最高峰の時計職人(The most perfect of Swiss watchmakers)」と例えたほどです。とても几帳面で妥協を許さなかった性格だったことがうかがえるラヴェルですが、家に関しても例外ではなかったのです!
音楽にも家にも一切の妥協なし!
生まれてから42歳まで実家に住んでいたラヴェルは、1917年に母が亡くなってから、寂しさを紛らわせるために友人の家を転々とし、居候していました。しかし一念発起し、友人の伝を使って家探しを始めます。
そして、46歳になった1921年、母の死により相続した遺産を使い、初めて自宅を購入します。場所はパリから45km離れたモンフォール=ラモリという田舎街で、広大な森(ランブイエの森)が広がり、自然にあふれています。
購入したときの家の値段はあまり高くなく、整備も入居当初はあまり整っていませんでした。ここで、完璧主義のラヴェルの出番です。7年をかけて、自分の思い描く理想の家に近づけるべく、増築や改築を繰り返したのですが、それではまだ飽き足りません。
高名な発明家でエンジニアの父を持つラヴェルは、新しい技術にも目がなく、電話線を引き、中央暖房も完備し、冷蔵庫や無線機もアメリカから輸入したのでした。確かに、新居に引っ越したばかりですと、いろいろ揃えたくなる気持ちもわかりますが、ここまで徹底してしまうラヴェルはさすがです。
家の中はまるで異国!
収集癖のあるラヴェルは、知恵の輪や、からくり人形、ガラスの中に模型が入った飾りなどを数多く集めており、これらもラヴェルの家に展示されていました。とても印象的でしたが、ラヴェルの音楽に触れると、彼がこのようなものに興味を持っていたことも不思議ではないことがわかります。
(Vladimir Jankelevitch“Ravel”1939)
そして、中国磁器のティーカップや、シーシャ(水たばこ)のようなものや、おそらくアフリカのどこかの部族の仮面であろうものなどがいたる所に飾られており、エキゾチックな雰囲気が漂っています。自身でデザインした壁紙にも、このような異国文化に影響を受けた痕跡が見られます。
さらに、ラヴェルが生きた時代のフランスでは、日本趣味(ジャポニズム)が流行していました。ラヴェルはその影響を大いに受け、この家にも反映されています。家中の壁には浮世絵や、日本人絵師による肉筆画の数々がかけられていました。
あのラヴェルが浮世絵を膨大に飾っているわけですが、日本人からすれば「本当にラヴェルがこんな絵を自宅に飾っていたの?」と思ってしまうかもしれません。そこで、同時代の作曲家ドビュッシーが、自宅でストラヴィンスキーと撮影した写真を見てみましょう。ここで注目すべきは、彼らの背後の壁です。2つの浮世絵がかけられているのがわかります。実は、日本に対する趣味は、当時の音楽家たちは大なり小なり共通して持っており、このような光景は、決して珍しいものではありませんでした。
これはドビュッシーの自宅で、後ろに注目すると、葛飾北斎作「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」と、喜多川歌麿作「當時全盛美人揃」の「玉屋内志津か」がかけられています。
庭も自らデザインして作り上げる
ラヴェルは、そんな中でも頭ひとつ飛び抜けて日本に興味があったのかもしれません。前庭は日本庭園を模して作りました。パリでさまざまな植物を買って帰り、自ら植えていたそう。友人のエレーヌ・ジョルダン=モランジュは、その様子を次のように述べています。
庭を“日本化”するために植えられた小さくエキゾチックな植物たち……ラヴェルは日本に対する愛情をも妥協することなく、日本のものだけを集めた小さい部屋もありました
ラヴェルの蔵書にも、日本の文化や歴史に関する本が並んでいました。私たちがラヴェルの音楽を聴き、彼や彼の音楽に興味を持つのと同じく、ラヴェルも浮世絵をはじめとした日本の芸術に親しみ、興味を持っていたことが肌で感じられます。
左:日本風庭園に手入れをするラヴェル(Vladimir Jankelevitch“Ravel”1939)
モンフォール=ラモリの家で書かれた異国情緒に溢れる作品
1. 歌劇《子供と魔法》より「マグはいかが?」
黒の陶磁器(ウェッジウッド)と中国磁器のカップがデタラメな英語、中国語や日本語を喋り、カンフーの真似をしながら歌う曲。
2. ヴァイオリン・ソナタより第2楽章「ブルース」
ありとあらゆるジャズ
3. 《ツィガーヌ》
ハンガリー出身のヴァイオリニストのために書かれた作品。ロマの踊りであるチャルダッシュの形式を踏襲おり、終始ジプシーの香りが漂よっている。
4. 《マダガスカル島民の歌》より第3曲「暑い日に茂った木下で横になるのは心地よい」
歌、フルート、チェロ、ピアノのために書かれた歌曲。マダガスカルの笛や打楽器を模倣して書かれています。
2匹の猫と来客でにぎわっていたラヴェルの秘密基地
ラヴェルは、シャム猫を飼っており、ムーニ(Mouni)とミヌー(Minou)と名付けられていました。このシャム猫にもラヴェルのこだわりが現れています。というのも、ラヴェルが猫を飼い始めた頃は、シャム猫はまだヨーロッパでは珍しい種類で、ラヴェルの新しい物好きがここでも発揮されているのです。
歌劇《子供と魔法》〜「猫のデュオ」
この曲は、2匹の猫を飼っている時期に作曲されました。
そしてもちろん、この家には多くの人たちが出入りしていました。レッスンを受けに生徒がくることもあれば、遠くからラヴェルを訪ねてくる友人たちもいました。その中にはアメリカからやって来たガーシュウィンもいました。頻繁に友人たちを呼び、パーティーを開いていたため、この田舎街でも寂しさを感じることはなかったようです。
ラヴェルはこの家に、1937年(62歳)に亡くなるまでの約16年間住んでいました。
46歳、初めての一人暮らしのために購入した家でしたが、まるで子どものように無邪気な好奇心を持ち続け、お気に入りのものに囲まれた秘密基地のような空間をずっと大切にしたからこそ、あの独特で魅力あふれる作品が生まれたのだろうな……と思える、そんな宝箱のようなお家です!
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