読みもの
2020.12.05
洋楽ヒットチャートの裏側で Vol.2

AORの先駆けとなったシティ・ミュージックのブームを誘発!——マイケル・フランクス「アントニオの歌」

インターネットがなかった時代、まさに自らの手で数々の大ヒットを生み出した元洋楽ディレクター、田中敏明さんによる連載。第2回は、数々のミュージシャンにリスペクト、カヴァーされる続けるマイケル・フランクス。田中さんが彼の音楽をリスナーに伝えるために考えたのは、新しい音楽のカテゴリーでした。

田中敏明
田中敏明 元洋楽ディレクター

1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...

この記事をシェアする
Twiter
Facebook

洋楽A&Rの原点、マイケル・フランクス

ワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽ディレクター時代に担当したアーティストの中で、マイケル・フランクスには特別な想い入れがあります。

私が初めて担当したアーティストの作品は、1976年のジェイムス・テイラーの「イン・ザ・ポケット」でしたから、マイケル・フランクスの「スリーピング・ジプシー」は、それから1年後のディレクターとして、まだまだ駆け出しの時期。私の洋楽ディレクターとしての原点は間違いなくマイケル・フランクスでした。

1975年にアメリカでリリースされたワーナー・ブラザーズでの第1弾アルバム「アート・オブ・ティー」を聴いて、震えあがるほどの興奮を覚えました。

トミー・リピューマがプロデュース、ジョー・サンプル、ウィルトン・フェルダーなどクルセイダーズのメンバーやラリー・カールトン、デイヴィッド・サンボーンなど、錚々たるミャージシャンがサポートした傑作でしたが、当時日本ではなぜか発売が見送られていました。大学4年、私がアルバイトで働き始める少し前のことでした。

マイケル・フランクス「アート・オブ・ティー」

岡倉天心/東洋文化に傾倒するインテリ・ミュージシャンの魅力

日本で発売するには、ただ出すだけではセールスが期待できません。そこで日本発売のタイミングを、次のアルバムが出るまでお預けにしていました。

1977年、マイケル・フランクスの待望の第2弾アルバム「スリーピング・ジプシー」の音源が到着。前作同様トミー・リピューマがプロデュースを担当し、マイケルのウィスパー・ヴォイスの魅力を存分に発揮した傑作に仕上げられていました。

マイケルは物静かなインテリで、このアルバム・タイトルはフランスの画家アンリ・ルソーの絵画「眠るジプシー女」をイメージしたものでした。

マイケル・フランクス「スリーピング・ジプシー」

彼は美術にも非常に造詣が深く、翌1978年の3枚目のアルバム“Burchifield Nines”(邦題「シティ・エレガンス」)ではアメリカの水彩画家、チャールズ・E・バーチフィールドの9つの作品について描き、1982年の “Objects Of Desire”(「愛のオブジェ」)ではゴーギャンの絵画がジャケットに使用されました。

マイケル・フランクス「シティ・エレガンス」

「愛のオブジェ」のジャケット

また、冒頭に述べた「アート・オブ・ティー」は日本の茶道のことで、マイケルは座禅のようなポーズで座っています。アルバム・タイトルは、心酔する岡倉天心の “The Book Of Tea”(茶の本)からインスピレーションを得てつけたものです。

東洋の文化への強い憧れは、後に実感することになります。

周辺のムーブメントを観察して流行を作る

「スリーピング・ジプシー」の中でボサノバの巨匠、アントニオ・カルロス・ジョビンに捧げた作品 “Antonio’s Song” に、私はたまらなく魅力を感じていました。

かまやつひろしさん、南佳孝さん、丸山圭子さんらのミュージシャンたちが、ライヴでこの曲を歌っているという情報を得て、会場に足を運び、お客さんの反応を直に観察して、ヒットを予感。「アントニオの歌」としてシングル・カットしています。

かまやつさんたちに推薦コメントをいただいたりして、ラジオや有線放送のプロモーションにも、さらに力を入れていきました。

当時、音楽誌『アドリブ』の呼びかけで、業界内では“ソフト・アンド・メロウ”というムーヴメントが生まれていました。ワーナーの洋楽ではジョージ・ベンソンの「ブリージン」が大ヒットして、トミー・リピューマ制作のベンソン、アル・ジャロウ、スタッフ、ジョアン・ジルベルトなどを、独自に “ヤング・アダルト・ミュージック” と銘打ってキャンペーンを展開中でした。

その一方で、私はマイケル・フランクスの音楽を “シティ・ミュージック” として宣伝し、メディアの露出を図りました。当時、ニック・デカロ、ベン・シドラン、ルパート・ホームズなど同傾向のアーティストがいましたが、各社の事情が異なり、まとまってのプロモーションは難しい状況でした。私はCBSソニーで当時、ネッド・ドヒニーの担当ディレクターをされていた森下さんと「シティ・ミュージックの流行を作っていこう!」と意気投合したことを覚えています。

シティ・ミュージックの傑作を満を持して発売......そしてAORの時代へ

1977年9月、マイケルはガールフレンドのクローディアを伴って初来日。ワーナーの常務夫妻が仲人となり、コンサート前に赤坂の日枝神社で羽織袴と着物姿で厳かな雅楽の調べに包まれて、古式蒼然たる挙式をあげました。そして、ツアーの最中の休日に、2人だけで新婚旅行に奈良を訪れています。

そのときの思い出を3枚目のアルバム「シティ・エレガンス」の中で、「Meet Me In Deerpark(鹿の園で逢いましょう)」という曲に歌っています。

発売タイミングを見計らっていた、シティ・ミュージックの傑作デビューアルバム「アート・オブ・ティー」は、「スリーピング・ジプシー」のヒットのあと、この来日に間にに合うタイミングで、無事に日本発売しています。

当時、私はマイケル・フランクスのシティ・ミュージックを、心地よい雰囲気で、回りの状況に溶け込む音楽というニュアンスを込めて “シチュエーション・ミュージック” と説明を加えて宣伝しました。

マイケル・フランクスは、来日中のインタビューで「“シティ・ミュージック”という言葉はアメリカにはないよ。あえて言えば “アーバン(都市、都会の意)・ミュージック” かな」と発言していましたが、彼の音楽はシティ派AORのはしりと言えるものでした。

AORとは

Adult-oriented Rock=大人向けのロックの意で、1980年代に生まれた言葉。アメリカではAORというとAlbum-Oriented Rock/アルバム全体の完成度を重視するロック、の意でも使われる。現在、国内外で再評価されている邦楽シティ・ポップも、これらの影響を受けたものと言える。

田中さんが担当した、クリストファー・クロス、スティーヴン・ビショップ、マーク・ジョーダン、ビル・ラバウンティ、マイケル・センベロといったミュージシャンもAORにカテゴライズされる。

その後、私はAORと呼ばれるアーティストを数多く担当していますが、マイケル・フランクスで学んだプロモーションのノウハウが大いに役立ったと思います。

1981年に「なんとなくクリスタル」で芥川賞を受賞された田中康夫さんとも知り合い、AORアーティストのライナーノーツの原稿や宣伝用パンフレットの推薦コメントをいただくなど懇意にさせていただきました。

私が魅了され、印象に残っている「アントニオの歌」のブームは日本だけのものだったようで、アメリカで発売されたベスト盤には収録されていません。その後発売されたアルバム「シティ・エレガンス」に収録された、ヴィヴァルディの「四季」をイメージした「ヴィヴァルディズ・ソング」も印象的です。

マイケル・フランクスから田中さんに宛てられた手紙。
田中敏明
田中敏明 元洋楽ディレクター

1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...

ONTOMOの更新情報を1~2週間に1度まとめてお知らせします!

更新情報をSNSでチェック
ページのトップへ