読みもの
2020.10.26
洋楽ヒットチャートの裏側で Vol.1

素顔を見せないデビュー戦略が成功!——クリストファー・クロス「南から来た男」

インターネットがなかった時代、まさに自らの手で数々の大ヒットを生み出した元洋楽ディレクター、田中敏明さんによる連載。想い出のアーティストや曲をヒットの裏側と秘密を教えてくれました。洋楽黄金世代でなくとも、まだ聴かぬ名曲に出会えます。
第1回は1979年、AORの雄としてデビュー・ヒットするも、誰も顔を見たことがないミステリアスな歌手として話題になったクリストファー・クロスのお話です。

田中敏明
田中敏明 元洋楽ディレクター

1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...

クリストファー・クロスのデビュー盤日本版のジャケット

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プロモーションに “限界”は存在しない! 洋楽をヒットに導く「露出頂上作戦」

私は現在、公共図書館の仕事をしていますが、かつてワーナーミュージック(以前はワーナー・パイオニア)というレコード会社で、長いあいだ洋楽のA&R(俗に言う洋楽ディレクター)の仕事に携わってきました。

私の現役時代は1970年代の半ばから主に1990年代までで、それ以降はディレクターの仕事から離れていたり、他部門に異動していましたので、ご紹介するのは、今から30年も50年も昔の体験についてですが、音楽ファンには興味をもっていただけると思っています。

かつてレコード会社のディレクターはアーティスト情報の発信源でした。

現在のようにインターネットで情報が溢れることなく、SNSが存在しなかったあの時代、マスメディアはレコード会社からの情報を頼りとし、ユーザーはメディアの提供するアーティスト情報を渇望していたのです。

つまり、レコード会社の洋楽ディレクターの仕事の重要な役割は、自分の担当するアーティストに愛着をもち、日本のマーケットで売れるためのニュースを欠かさず流すことでした。

私は邦楽の世界には営業の仕事を通してしか触れていませんが、邦楽のようにアーティスト事務所やマネージャーが常に近くにいる状況とは異なり、洋楽の場合はマネージメントが海の向こうである分、洋楽ディレクターが自分の担当するアーティストの日本でのスポークスマンとしての機能を持つことが出来たのでした。

あとは、いかに新人育成に向けてアーティストに愛着を持つか、それがヒットの重要な要素だったと思います。

マーケティングなどという言葉がまだ一般的ではなかった時代です。私はレコード会社にカッコ良さは求めませんでした。かなり野卑で土着的な仕事のやり方をしてきました。かつて、大江健三郎に「見る前に跳べ」という小説がありましたが、まさに若さを武器に行動あるのみでした。

日本でのプロモーションの方向性を決め、あとは計画に沿っていかにプロモーションを拡げていくか、それがヒットの秘訣という信念があり、やり遂げたときには、何とも言えない深い達成感を感じたものです。

しかし、プロモーション(宣伝)にはここまでやればいいというような “限界”は存在しません。私個人は「仁義なき戦い」にあやかって “露出頂上作戦” とプロモーション計画を名づけて、ひたすらメディアの露出に奔走しました。

音源を聴けばヒットの予感......容姿は未確認!

ひとつ、今だから話せるエピソードがあります。セールス的にAOR(80年代の日本の音楽用語でAdult-Oriented Rock/大人向けのロック)の頂点を極めた1人、クリストファー・クロスのデビュー時の話です。

1979年、1本のアドバンス・カセットがアメリカのワーナー・ブラザーズ・レコードから届きました。現在ならさしずめ世界中一斉に音楽ファイルやアーティスト資料をデータで提供するインフラが整備されているはずですが、あの頃は郵送で最初にカセットが届き、それで初めて試聴することができたのです。

甘美な中に愁いを湛えた素晴らしいヴォーカルと素敵な曲たち、そして目をみはるゲスト・ミュージシャンの豪華さ。すぐにヒットを確信しました。バイオグラフィーはカセットと同時に到着していましたが、アーティスト写真は未着でした。クリストファー・クロスには申し訳ないですが、グリーンの色彩の中に際立つピンクのフラミンゴのジャケットのイメージと美しい歌声から、さぞかし素敵な写真が届くものと思っていたのです。

楽曲イメージとのギャップから生まれた「ミステリアス戦略」

しかし、数日後に到着したのは、いかにも“テキサスのバンド”という感じのグループ写真。メンバーの中で、一際大柄の髭の人物がクリストファー本人だとわかりました。そのとき、私の頭をよぎったプロモーション戦略はこうです。

①音楽とマッチしたフラミンゴのイメージを前面に打ち出す。
②まず、ミステリアスなアーティストのイメージを定着させる。
③プロモーションがある程度軌道に乗ってからアーティスト写真をオープンにする。

そこで、「ハロウィンの晩のライヴがあまりにも素晴らしいので、ワーナー・ブラザーズのスカウトマンが仮装して素顔を見せないままのクリストファー・クロスと契約を交わした」というストーリーを作り上げ、プロモーション・トークを徹底しました。

シングルは「風立ちぬ」、アルバムはSF作家のレイ・ブラッドベリ風、ミステリアスに「南から来た男」という邦題をつけて売り出しました。

クリストファー・クロス「風立ちぬ」の日本盤ジャケット。

「南から来た男」はオリコン洋楽アルバム・チャートのNo.1を実現。シングル「風立ちぬ」に続いて、ニコレット・ラーソンとのデュエット「セイ・ユール・ビー・マイン」、「セイリング」も全国のラジオでヘヴィー・ローテーションとなり、音楽誌、FM誌でのインタビュー特集によって、素顔のクリストファー・クロスが明らかになっていきました。

その後、「南から来た男」(原題:Christpher Cross)はアメリカでも大ブレイク。1981年2月、グラミー賞の主要4部門(最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀新人賞)を独占する快挙となりました。

レコード会社がアーティスト情報の発信源たり得た時代のお話でした。

 

追伸 クリストファー・クロスは今年の春に新型コロナウィルスに感染して闘病生活を強いられましたが、幸い現在は元気に復活しています。

田中敏明
田中敏明 元洋楽ディレクター

1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...

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