『M.バタフライ』が《蝶々夫人》を通してえぐり出す「東洋/西洋」「女/男」の構図
「音・音楽」から舞台作品を紹介する連載。今回は実際に起きた事件と、オペラ《蝶々夫人》にインスパイアされた戯曲『M.バタフライ』。1988年にはトニー賞受賞、92年には映画化もされた作品が、日本では32年ぶりに上演されます。男性(西洋)による女性(東洋)への幻想や支配というセンシティブな内容を、現代においてどう上演していくのか...... 演劇・舞踊ライターの高橋彩子さんが考察します。
早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ、ダンス、ミュージカル、オペラなどを中心に執筆。『The Japan Times』『E...
日本におけるオペラ《蝶々夫人》の受容は、他とは少し異なっている。まず、蝶々さんを日本人に演じてほしいという意見が少なくないこと。次に、本作を「国辱」ものとして忌避する人がいること。どちらも、ここに描かれる世界を、今の日本・日本人と重ねているからこその発想だろう。実際、《トゥーランドット》が中国と言いつつ架空度が高い上、本国自体の政治体制も一変しているのと比べて、《蝶々夫人》は当時の日本をリアルに描いた小説(とその戯曲)を原作とし、日本の国自体も表面上は連綿と続いているので、無理からぬことかもしれない。
ただ、先に挙げた意見の前者は作品を愛し、後者は忌み嫌う点で、ベクトルは逆と言える。それは、どこに視点を置いて作品を考えるか、にも関係しているだろう。1987年に初演された戯曲『M.バタフライ』は、そのことを考える上でも極めて示唆的かつ魅力的な作品だ。
トニー賞最優秀演劇作品賞、映画化もされた名作『M.バタフライ』
アメリカの劇作家デイヴィッド・ヘンリー・ファンの戯曲『M.バタフライ』。この作品は、実際に起きた事件をもとにしている。1964年、北京のフランス大使館に勤める20歳のベルナール・ブルシコが、28歳のシ・ペイ・プ(時佩璞)という京劇俳優と恋に落ちて子どもを儲け、以後20年近く妻子と一緒にいるために、中国政府にフランスの国家機密を流し続けて逮捕される。しかし、親に男として育てられたと説明し、男装の女性として振る舞っていたシは実際には男性で、子どもも当然ながら偽物であり、ブルシコに計画的に近づいた工作員だったことが、逮捕によって判明した、という事件だ。
ファンはこの事件にオペラ《蝶々夫人》を絡めて『M.バタフライ』を書き上げた。
時は実際の事件とほぼ同じ1960年代。文化大革命前夜の中国・北京。フランス人外交官のルネ・ガリマールは、オペラ《蝶々夫人》を披露した京劇のスター女優ソン・リリンと知り合う。オペラに魅了され、同時にヒロインを演じたソンにも惹かれるガリマール。しかし、ソンは毛沢東のスパイで——。
ジョン・リスゴーのガリマール役とB・D・ウォンのソン役でジョン・デクスター演出によりブロードウェイで初演されるや話題を呼んだ本作は、翌1988年のトニー賞で最優秀演劇作品賞を受賞。衣装を担当したのは石岡瑛子で、受賞は逃したが最優秀衣裳デザイン賞にノミネートされている。このプロダクションは1990年に劇団四季でも上演され、日下武史がガリマール、市村正親がソンを演じた。
さらに1992年には、鬼才デヴィッド・クローネンバーグが映画化。ガリマール役はジェレミー・アイアンズ、ソン役はジョン・ローン。クローネンバーグならではのラストシーンは鮮烈だ。
《蝶々夫人》の存在が明確にする「東洋/西洋」「女/男」の構図
ファンの戯曲が見事なのは、《蝶々夫人》という題材を入れることで「東洋/西洋」、「女/男」という構図を明確にしたことだ。しかもこの2つの構図は別個のものではなく、深く結びついた形で表現される。
西洋に侵略された歴史を持つ東洋。西洋人にとって東洋は自らに都合の良い幻想の対象であり、男性にとっての女性も同様であり得る。興味深いことに、出会ったばかりのソンによってそのことを指摘されるにも関わらず、ガリマールは、ソンとの関係が深まるにつれ、東洋人の女性(と信じる)ソンを慎み深く神秘的な女性ととらえ、彼女を支配的に愛し、庇護する西洋人男性としての自己を強めていく。まさに、ピンカートンが蝶々さんにしたように。
戯曲では、冴えない青春を過ごし、決してマチズモ(男性優位主義)的な男性ではなかったガリマールの変化を克明に描く。それが、男性が潜在的・普遍的に持つ欲望であり、叶える条件が揃った時、男性は誰もがピンカートンのようになるのだ、とでも言うように。
しかし、蝶々さん側はどうだろう? オペラで蝶々さんがあのような人生を選んだのには、相応の理由がある。ときどき、「男性に捨てられて命を断つ従順な女性」などと簡単に紹介されているのを目にするが、あの時代、武家の娘として教育され、貧しさゆえにアメリカ人男性と“結婚”するしかなく、しかし誠実に結婚相手を愛そうとした彼女にとって、夫と信じた男性が別の女性と結婚していることを知った以上、子どもを手放すしかないし(あの時代、日本で混血の父無し子がどんな運命を辿るかは明らかだ)、一生愛し抜こうとしていた夫も子どもも奪われた彼女には、生きていくことはできなかったのだ。
そんな女性側の事情を考えず、(東洋の)女性は生来そういう生き物だと信じ、まるで思いがけないギフトのように受け取る男性。『M.バタフライ』は、そんな男性像がどうなるかをこそ描いているのであって、工作云々の“衝撃の事実”は実のところ本質的な問題ではない。
現代にどう上演するか
人種差別的要素を孕む“ザ・オリエンタリズム”なオペラ《蝶々夫人》は今、西洋においては「上演し続けていい作品なのか」と議論されることすらあると言う。オペラでは、演出によってそうしたさまざまな問題をクリアにすることもできるが、ヒロインに日本人歌手を求め、写実的な演出にこだわると、それも少々難しいかもしれない。むしろ、日本を描いたものであるという呪縛から自由になって、プッチーニの優れたオペラの一つとして、さまざまな上演を楽しみたいと、個人的には思う。
さて、そんな《蝶々夫人》の構図を用いた『M.バタフライ』自体も、初演から四半世紀が過ぎた今、どのような形で上演されるか気になるところ。
まもなく開幕する舞台では、劇団チョコレートケーキ主宰の日澤雄介が演出を手がける。劇団チョコレートケーキは、忘れてはならない歴史に対して骨太にアプローチし、時にさまざまなタブーにも挑んできた。今回、日澤が舞台をどう造形するのか注目だ。ルネ・ガリマールには、内野聖陽。その演技力や存在感で、観る者を惹きつけて離さない唯一無二の俳優だ。ソン・リリンには、岡本圭人。昨年の『Le Fils 息子』では実父・岡本健一と親子役で共演して好評を博した彼は今回、どんな“虚実皮膜”を見せてくれるのだろうか?
東洋/西洋、女/男にとどまらず、私たち観客の偏見や思い込みが暴かれるような舞台に期待したい。
原作: デイヴィット・ヘンリー・ファン
翻訳: 吉田美枝
演出: 日澤雄介(劇団チョコレートケーキ)
出演: 内野聖陽、岡本圭人、朝海ひかる、占部房子、藤谷理子、三上市朗、みのすけ
東京公演
会場: 新国立劇場 小劇場
日程: 6/24(金)~7/10(日)
大阪公演
会場: 梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ
日程: 7/13(水)~7/15(金)
福岡公演
会場: キャナルシティ劇場
日程: 7/23(土)~7/24(日)
愛知公演
会場: ウインクあいち 大ホール
日程: 7/30(土)~7/31(日)
詳しくは公式サイトから
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