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2023.01.11
音楽ことばトリビア ~ポーランド語編~ Vol.7

ポロネーズは王の踊りから民族の誇りへ〜ポーランドの5大民族舞踊を徹底解説【後編】

平岩理恵
平岩理恵 ポーランド語通訳・翻訳家

東京外国語大学大学院修士前期課程修了。ワルシャワ大学音楽学研究所に政府給費留学(2001~03年)。ポーランドの舞曲やモニューシュコを研究。訳書 『ショパン家のワルシ...

イラスト:本間ちひろ

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今回はトリビア・ポーランド語編Vol.5に続く「ポーランドの民族舞踊・後編」、いよいよ「ポロネーズ」の登場です。お蔵出し情報満載でお届けします!

「ポーランドの踊り」という意味のフランス語が逆輸入

ポーランドの「5大民族舞踊」の一つであり、しかもその筆頭に君臨する舞踊「ポロネーズ」。前編でご紹介したマズル、クヤヴィアク、オベレク、クラコヴィアクと並ぶ存在でありながら、これら4つのダンスとはだいぶ様相が異なるのです。ポロネーズの奥深い秘密の一端を、紐解いてみましょう。

まず注目したいのはその呼称です。ほかの民族舞踊はいずれも地方名または踊りの特徴を表す語から派生した名であるのに対し、「ポロネーズ」はなんと、外来語なんです! フランス語で「ポーランドのダンス」を意味するdanse polonaiseのpolonaiseの部分がポーランドに逆輸入され、その音をポーランド語のアルファベットで書き表した結果、「polonez(ポロネス)」となりました。

この呼称が、今私たちが「ポロネーズ」と聞いて思い浮かべるような特徴をもつダンスの名として定着するようになったのは、およそ18世紀の初め頃のことです。その特徴は次のとおり。

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ポロネーズ Polonez

3/4拍子で緩やかなテンポ、堂々として威厳と優美さを兼ね備えた曲調に乗って、床を滑らせるようにステップを進めていくウォーキングダンスです。男女が手を取り合ってペアになり、それが複数連なって列をなして、蛇行したり、輪になったりしていきます。

基本のリズムは「タンタカタンタンタンタン」(譜例➀)で、この1拍目のステップをもっとも深く踏み込みます。

譜例➀は最も典型的かつ特徴的なポロネーズのリズム。伴奏に見られることが多い。譜例➁はポロネーズならではの終止形。アクセントが2拍目にずれるのが特徴。女性終止、とも呼ばれる。

民族舞踊団マゾフシェ(Mazowsze)によるポロネーズのステージ(踊り手の登場は0:39頃から)。派手な振り付けによってではなく、優雅な身のこなしでいかに品位よく美しく見せるかに重きが置かれた舞踊。衣装はいずれかの地方固有の民族衣装ではなく、ポーランドの貴族階級のもの。

「コントゥシュ」を纏ったシュラフタ、スタニスワフ・アントニ・シュチュカ(Stanisław Antoni Szczuka)のポートレート
ポーランドの貴族は「シュラフタ(szlacha)」と呼ばれ、全人口の約1割を占めた。もともとは地主階級だったが時代が下るにつれて土地なしのシュラフタも多くなったが特権は保ち続けた。日本語では武士になぞらえて「士族」とも訳される。シュラフタの正装である「コントゥシュ(kontusz)」はオリエント、とくにトルコに強く影響を受けており、ズボンではなく羽織の衣装を重ねて豪華な帯で締めるなど、日本の着物に通じるような特徴がある。スリットの入った袖は肩から後ろに投げかけて垂らし、腰にはサーベルを提げ、また口ひげを形よく整え捻りあげる、といった装いがシュラフタの身だしなみだった。この装いを鮮やかに見せつつ踊る(=歩く)ことのできるポロネーズはまさにコントゥシュためにある踊りだったといってもよいほどである。

源は民俗舞踏じゃない?! 王宮の踊りが農村に影響を与えた可能性も

ポロネーズの起源については16世紀後半に遡る、とする説も依然根強いのですが(1574年の国王ヘンリク・ヴァレズィHenryk Walezyの戴冠式で踊られた、など…)、これを鵜呑みにすることは残念ながらできません。

王の御前で音楽に合わせて練り歩く行進が行なわれていた、という証言こそあれど、はたしてその「行進」はダンスと言えるものだったのか? 何と呼ばれていたのか? 音楽は一体何拍子だったのか? 誰もこの問いに答えることはできないのです。

しかも、polonaiseやpolacca、chorea polonicaなどヨーロッパの各国語で「ポーランド・ダンス」と題して書きつけられた16~17世紀当時の楽譜の多くが4拍子の音楽だった、という事実も見逃せません。つまり外国人たちがpolonaiseなどと呼んだダンスは、今の理解の「ポロネーズ」と同じだとは言えないということなんです。

ポーランドで踊られていたダンス、ポーランド人楽師が演奏していた舞曲はどれも、外から見れば「ポーランド・ダンス」。その中には、現在のポロネーズの卵もあったかもしれませんが、後にマズルやクヤヴィアク、クラコヴィアクなどになっていくものも含まれていた可能性だって十分あるのです。

ドイツの作曲家Valentin Haussmann(1560または1565-70~1613-14)の《ポーランドとその他の舞曲集》(1603年出版)の一部。どの曲を見ても「C」、つまり4拍子で書かれている。ハウスマンはポーランドに滞在して舞曲を収集し、自分の作品の中に取り入れた。

また、ほかの4つのナショナル・ダンスがいずれも土着の民俗舞踊が起源なのに対し、ポロネーズには特定の土地との結びつきがありません。いやいや、ポロネーズだって農村の踊りや民謡に端を発しているはずでは? というご意見も、ごもっともです。農民たちの婚礼で歌われる「Oj, chmielu(オイ、フミェル)」や、「poduszkowy(ポドゥシュコヴィ)」などの踊りは、ポロネーズの前身だと今も広く認識されています。

筆者も以前はそれを当然と思ってあちこちに書いてもきました。しかし農村の土着の民謡や踊りが国王の宮廷に至ってポロネーズになったという過程を示す証拠は、少なくともこれまでには何一つ見つかっていないのです。

民謡「Oj, chmielu」(ああ、ホップよ)の楽譜と音源

むしろ、ポーランド最大のロマン派詩人、アダム・ミツキェーヴィチ(Adam Mickiewicz/1798~1855)の長編叙事詩『パン・タデウシュ(Pan Tadeusz)』(1834年出版)に描かれているように、歴史を経る中で全土のシュラフタたちに広まって、各地の領主屋敷でも盛んに踊られたポロネーズの方が、既存の農民たちの踊りや歌に何がしかの影響を与えたと考える方が自然ではないでしょうか……。

歴史画家ユリウシュ・コサックが『パン・タデウシュ』のために描いたポロネーズを踊るシーンの挿絵。
1999年にはアンジェイ・ワイダ監督によるポーランド・フランス合作の映画『パン・タデウシュ物語』も作られている。

国を失った民衆の心の拠り所に

定説を覆すようなことばかり挙げてきましたが、それでも、ヘンリク・ヴァレズィのような外国の王家出身者を選挙によって選び、君主に迎えていたポーランドの選挙王政時代こそが、ポロネーズを育て上げる土壌となったのではないかと筆者は考えています。

つまり、こういうことです。ポーランドの王宮では、その昔からウォーキング・ダンスを意味するchodzony(ホヅォニ)などと呼ばれる「練り歩き」の習慣があった、ということはわかっています(コントゥシュ姿のシュラフタ一同が女性たちとともに列をなし、大広間だけでなく宮殿中を巡る行進は、何十分もかけて行われることもありました)。それが外国出身の王に付き従ってきた外国人たちがポーランドの宮廷に常在するようになったことで、フランスなどの宮廷舞踊の影響を受け、音楽や振り付けに変化がもたらされ、徐々に今に知られるポロネーズの特徴を獲得していったと考えられるのではないか、と思うのです。またその踊りは、諸外国の王侯貴族の眼に触れやすくなったことで「ポーランドの踊り」として国外でも知られるようになっていきました(貴族社会の公用語はフランス語でしたから、polonaiseの呼称で広まったというのも当然、ということになります)。

J.S.バッハに代表される、ポーランド君主を兼任したザクセン選帝侯に仕えた宮廷音楽家の存在も、舞曲としてのポロネーズの発展と人気の拡大に大きな役割を果たしました。

J.S.バッハ:管弦楽組曲 ロ短調〜「ポロネーズ」

そして18世紀末、遂に国家としての独立を失ったポーランドにとって、ポロネーズは繁栄の極みにあった頃のポーランドを象徴するダンス、最も大切な「民族舞踊」として認知されることになったのです。

このように舞踊として揺るがぬ様式と地位を確立し頂点を極めたポロネーズは、18世紀後半から19世紀と、踊りを目的としない芸術音楽の分野でも、ショパンを筆頭に絶大な人気を博すことになります。

ポーランド出身、フランスで没した画家テオフィル・クフィアトコフスキ作『ショパンのポロネーズ』(1859)。アダム・ミツキェーヴィチをはじめとするポーランド亡命貴族が集まっていたオテル・ランベールでの舞踏会を描いたもの。

また「ポーランドのクリスマスキャロル」の回でもご紹介したコレンダ《Bóg się rodzi(神が生まれる)》のように、誰もが口ずさむ旋律の中にも、ポロネーズのリズムは多く用いられているのです。

ポーランドの歴史とともに歩みを進めてきたポロネーズ。その、成り立ちに想いを馳せつつ、あらためて、いろいろなポロネーズを鑑賞してみてください。

スタニスワフ・モニューシュコ(Stanisław Moniuszko, 1819~1872)の歌劇《幽霊屋敷(Straszny Dwór)》のTVドラマ版

〈ミェチュニクのアリア〉(09:12頃~)、および、ステファンの〈時計のオルゴール付きアリア〉の途中に流れるオルゴールのメロディ(16:00頃~)は、いずれも「ポロネーズ」で書かれている。ミェチュニクのアリアの方は、シュラフタの家の主が「シュラフタかくあるべし」を滔々と歌い上げるもので、ポーランドが最も栄えた「黄金の自由」の時代を彷彿とさせる。またオルゴールのポロネーズの旋律によって郷愁をかき立てられつつ歌われるステファンのアリアは、物語上は「今は亡き母への哀切」を込めたものだが、その裏には「亡国の母国ポーランド復活の切望」の意味が込められている。直接的な民族意識鼓舞の表現が許されていなかった三国分割下のポーランドでは、このように芸術作品に二重の意味を持たせることで検閲の目をかいくぐった。

平岩理恵
平岩理恵 ポーランド語通訳・翻訳家

東京外国語大学大学院修士前期課程修了。ワルシャワ大学音楽学研究所に政府給費留学(2001~03年)。ポーランドの舞曲やモニューシュコを研究。訳書 『ショパン家のワルシ...

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