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2024.01.01
ブルックナーやスメタナなど8人を紹介!

2024年にアニバーサリーを迎える作曲家

ONTOMOからの新年のご挨拶! あけましておめでとうございます!
2024年にアニバーサリーを迎える8人の作曲家を紹介します。この機会にぜひ多くの作品に触れてみましょう。

ONTOMO編集部
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東京・神楽坂にある音楽之友社を拠点に、Webマガジン「ONTOMO」の企画・取材・編集をしています。「音楽っていいなぁ、を毎日に。」を掲げ、やさしく・ふかく・おもしろ...

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生誕200年! アントン・ブルックナー(1824〜1896)

1824年にオーストリアのリンツ郊外で生まれたブルックナーは、11の交響曲をはじめ、ミサ曲やモテットなど宗教曲を中心とした合唱曲、そして室内楽曲や管弦楽曲も残しました。父親の影響で幼い頃からヴァイオリン、ピアノ、オルガンを学び、10歳の時にはすでにオルガニストの助手になります。

1855年にリンツ近郊のザンクト・フローリアン修道院のオルガニストに任命され、プロの音楽家に転身し、作曲の勉強も本格的に始めます。1868年にウィーン音楽院教授に就任し、1873年からはワーグナーと親交を深め、また1875年にウィーン大学講師となり学生だったマーラーと交流しました。

作曲家としての名声は、1881年に「交響曲第4番《ロマンティック》」の成功で確かなものとなり、頂点を極めたのは「交響曲第7番」の初演、60歳のときでした。

生誕200年! ベドルジハ・スメタナ(1824〜1884)

スメタナは、1824年に現チェコのリトミシュルで生まれ、ビール醸造師の父親がアマチュア音楽家であった影響で、幼い頃から音楽に触れ、ヴァイオリンやピアノを学びました。1843年に音楽家を目指して単身プラハへ出て音楽を学び、オペラやコンサートも頻繁に鑑賞しますが、学校の無断欠席が父にばれて連れ戻され、従兄が勤めていたプルゼニの学校に通います。

ハプスブルク帝国治下のチェコで民族意識に目覚めていたスメタナは、1848年に国民義勇軍の一員として参加し、革命鎮圧後の1849年にはリストとクララ・シューマンの援助を得てプラハに私立の音楽学校を創設するなど、祖国での音楽芸術の発展に尽力します。

代表作の連作交響詩《わが祖国》を作曲し始めたのは1876年、54歳のときで、7年の歳月をかけて完成させました。チェコの歴史や伝説、風景を描写した作品で、第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」はとりわけよく知られています。ほかに「弦楽四重奏曲第1番《わが生涯》」や歌劇《売られた花嫁》などの傑作を残しました。

没後100年! ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)

フォーレは1845年、フランス南部ピレネー山脈の麓にある小さな町(コミュヌ)パミエに生まれました。音楽とは無縁の家族でしたが、父が学長をしていた学校の小さなチャペルでハルモニウム(リードオルガン)に出会い、音楽の才能を見出されます。9歳でパリに出ると、古典・宗教音楽に特化したニデルメイエール音楽学校に入学。11年を過ごした学生生活では、生涯の友人となるサン=サーンスにピアノを師事し、代表作のひとつとなる《ラシーヌの雅歌》も学校で作曲賞を受賞しました。

学校を出るとオルガニストとして、またピアノ教師としての仕事をしながら作曲を続けます。のちに正オルガニストとなるマドレーヌ寺院では代表作《レクイエム》を作曲。また、当時の文化発信地であったサロンに出入りし、数多くの歌曲を作曲しています。ちなみにサロンでのフォーレはひじょうにモテたそうで、ピアノ連弾の名作《ドリー》は、愛人関係にあると噂されたエンマ・バルダック(のちのドビュッシー夫人)の娘のために書かれています。

1892年にはパリ音楽院で作曲教授に就任、後に学長に抜擢され、運営やカリキュラムなど、現在まで続く改革を行ないました。

歌曲、ピアノ曲、室内楽曲の大家として名声は高まっていましたが、学長職、オルガニスト職で多忙な日々をおくり作曲の時間はなかなか確保できず、難聴にも苦しめられるようになります。音楽家にとって耐え難い高音と低音が歪んで聞こえる症状は、75歳で学長職を辞したころにはかなり進行していたようですが、死の間際まで作曲を続けました。葬儀はゆかりのマドレーヌ寺院で、国葬として行なわれています。

没後100年!ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)

数々の名作オペラを残したプッチーニ。イタリア、・トスカーナ地方で古くはフィレンツェと並ぶ勢力を誇った町ルッカの宗教音楽家の家系に生まれ、教会オルガニストの職を得ますが、ヴェルディの《アイーダ》に感銘を受けてオペラ作曲家を志し、ミラノ音楽院で学びました。

《妖精ヴィッリ》、《エドガール》で着実に注目を集め、優れた台本作家コンビであるイリッカとジャコーザを得て、トリノで初演された3番目のオペラ《マノン・レスコー》(1893年)で大成功をおさめます。このトリオは続いて3大傑作として知られる《ラ・ボエーム》(1896年)、《トスカ》(1900年)、《蝶々夫人》(1904年)を発表。オペラ作曲家としての地位を確立します。

その後は自動車事故や、プッチーニとの関係を邪推した妻が、召使いを自殺に追いこんでしまうスキャンダル、協力者ジャコーザの他界などが続き、作曲の筆は緩やかになります。メトロポリタン歌劇場の依頼で書かれ、アメリカを舞台とした自信作《西部の娘》(1910年)、ウィーンで上演するオペレッタに挑戦した《つばめ》(1917年)がこの時期に作曲されています。

1918年に《外套》、《修道女アンジェリカ》、唯一の喜劇《ジャンニ・スキッキ》を一晩で上演する大作「三部作」を書き上げたプッチーニは、中国を舞台としたオペラ《トゥーランドット》に取りかかります。作曲中に体調不良に見舞われ、治療で訪れたブリュッセルで1924年に亡くなりました。《トゥーランドット》は未完のまま残されたものの、補筆完成され、現在までプッチーニのもっとも人気のある演目のひとつとなっています。

生誕150年! アルノルト・シェーンベルク(1874〜1951)

シェーンベルクは、1874年ウィーン生まれ。8歳でヴァイオリンを、15歳でチェロを学び、作曲は1894年に知り合ったツェムリンスキーに師事した以外は独学でした。はじめは後期ロマン派の作曲家として「弦楽六重奏曲《浄められた夜》」、交響詩《ペレアスとメリザンド》、《グレの歌》などを発表したのち、徐々に調性から離れ、1909年に「ゲオルゲ歌曲集」で無調時代に入り、代表作の《月に憑かれたピエロ》もこの時期に作曲しました。

1921年の夏に十二音技法を完成させ、これ以降の作品は十二音技法で作曲。《管弦楽のための変奏曲》やオペラ《モーゼとアロン》、1934年にアメリカ亡命後には《ワルシャワの生残り》やヴァイオリンとピアノのための《ファンタジー》などの傑作を残しました。

生誕150年! グスターヴ・ホルスト(1874〜1934)

組曲《惑星》で知られるホルストは、1874年にイングランド、グロスターシャー州チェルトナムの音楽一家に生まれ、幼い頃から父から学んで10代で作曲を始めました。ロンドンの王立音楽院で学んだのち、オペラのトロンボーン奏者や声楽教師を経てセント・ポール女学校で長年音楽教師を務め、その傍らで作曲活動も行ないます。

インド文学に興味をもち交響詩《インドラ》や古代叙事詩《マハーバーラタ》を題材にしたオペラ《サーヴィトリー》を、アルジェリアの民族音楽に影響を受けて管弦楽組曲《ベニ・モラ》を作曲するなど、独自の作風を育んでいきますが、あまり高評価は得られませんでした。

作曲家アーノルド・バックスの弟のクリフォード・バックスから占星術について学んだことをきっかけに、組曲《惑星》を作曲し、1920年の初演は大成功。ホルストの名声は確かなものとなりました。

没後50年! ダリウス・ミヨー(1892〜1974)

ダリウス・ミヨーは、1892年に南フランス、プロヴァンス地方のエクス=アン=プロヴァンスに生まれ、7歳からヴァイオリンを、17歳から和声法を学び、独自の技法で作曲を始めました。1909年にパリ音楽院に入学し、ヴィドール、デュカスらに学びます。

1917年からの2年弱、ブラジル大使を務めていた劇作家・詩人ポール・クローデルに随行しブラジルで生活。当地の音楽に強い影響を受けました。帰国後にはコクトー、サティを中心に若手作曲家がミヨー宅に集まり交友を深め、この若者たちは「レ・シス(フランス6人組)」と呼ばれるようになります。

若き日から研究していた復調・多調(違う調性を同時に重ねる)、20年代に出会ったジャズ、シェーンベルクら新ウィーン楽派の作曲家らとの交流により、独自の作風を育んでいきます。

第二次大戦中はアメリカに逃れ、戦後もパリとアメリカを往復する生活が晩年まで続きました。13の交響曲、18の弦楽四重奏曲、歌曲、室内楽曲、大小15のオペラ、20弱にも及ぶバレエ音楽、映画音楽と幅広いジャンルに膨大な作品を残した多作家であり、その数は作品番号がついているものだけで443曲に上ります。組曲《スカラムーシュ》や《屋根の上の牡牛》、《世界の創造》などの作品が、現代まで愛奏され続けています。

生誕100年! 團伊玖磨(1924〜2001)

童謡《ぞうさん》や《やぎさんゆうびん》、音楽の教科書に載っている歌曲《花の街》、「ラジオ体操第二」など、さまざまな楽曲でお馴染みの團伊玖磨。1924年(大正13年)に東京で生まれ、18歳で東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)に入学して作曲を学び始め、山田耕筰にも師事しました。

25歳のときに木下順二の戯曲『夕鶴』の付随音楽を作曲し、その後オペラ化が決まった際にも團が作曲。《夕鶴》は大ヒットを記録し、日本を代表するオペラとなります。歌劇の分野ではほかに《金閣寺》、管弦楽曲では7つの交響曲や、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を祝した《祝典行進曲》、序曲《東京オリンピック》、そして数多くの歌曲、合唱曲、吹奏楽曲、映画音楽も残しました。

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