読みもの
2023.01.24
音楽ことばトリビア ~ポーランド語編~ Vol.8

ボンダジェフスカの「乙女の祈り」? エラルヂェで演奏? 発音と格変化の罠

平岩理恵
平岩理恵 ポーランド語通訳・翻訳家

東京外国語大学大学院修士前期課程修了。ワルシャワ大学音楽学研究所に政府給費留学(2001~03年)。ポーランドの舞曲やモニューシュコを研究。訳書 『ショパン家のワルシ...

イラスト:本間ちひろ

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その特殊文字、見逃さないで!

このトリビア・ポーランド語編の連載が始まって以来、ありがたいことにいろいろな方からコメントをいただきます。「ポーランド人作曲家にはこういう人もいますよね」などと、ポーランドの音楽情報を分かち合う喜びを感じたいと思って連絡下さる方もいて、嬉しいかぎりです。

先日は「《乙女の祈り》もポーランドでしたよね?」とのメッセージが。まさにそのとおり! 日本でとても有名なこのピアノ曲は、ボンダジェフスカ(Bądarzewska)というポーランド人作曲家が書いた作品です(意外にもこの曲、本国ポーランドではあまり知られていないのですが……)。

ん? 「バダジェフスカ」じゃなかった? と思われた方もきっといらっしゃるでしょう。日本では多くの場合、そう呼ばれていますものね。

でも彼女の姓の2文字目にあるこの「ą」、実は「オン」という発音をする母音なのです(鼻母音なので「ン」は軽く鼻から抜きます)。なので、「バ」ではなくて「ボン」でないといけない、ということになります。

テクラ・ボンダジェフスカ(Tekla Bądarzewska, 1823~1861)
《乙女の祈り(Modlitwa dziewicy)》は1851年にワルシャワで発表された彼女の代表作。1858年にフランスで「ルヴュ・ミュジカル」誌の付録として掲載されたことをきっかけに各国で人気を博すに至った。

上はおそらくドイツで出版された楽譜の表紙。姓の表記はBadarzewskaとなっている。国外で出版される際、多くの場合ポーランド語の特殊文字を使わない表記で印刷されたため、彼女の名はこの形で世界中に知れわたることになった。
上はカトヴィツェ(ポーランド)で1947年に出版された楽譜の表紙。国内の出版物のため当然のことながら、こちらではきちんとBądarzewska表記となっている。

なお、ボンダジェフスカの出生年はこれまでさまざまな説が唱えられていたが、ごく最近、「1823年9月17日」であることが突き止められた。

人名が日本に入ってくるとき、ポーランド語にいくつかあるこうした「特殊文字」の記号(この場合はaの下についた「しっぽ」)が落とされて発音されてしまうケース、残念ながら多々あるんです。

音楽からは離れますが、ポーランド民主化の立役者で「ワレサ」として日本で知られている人物の名は本来「ヴァウェンサ(Wałęsa)」なので、ポーランド人相手に「ワレサ大統領のことを知っています!」といくら力説しても、なかなか伝わらない、ということになってしまうんです……。せっかく共通の話題で盛り上がりたいのに、発音が通じないというだけで会話にならないなんて、とっても残念なことだと思いませんか? 筆者としては皆さんに少しずつでも、この連載などを通じてポーランド語の文字や読み方に親しんでもらえたらいいなぁ、と願っています!

そして、ポーランド人が外国語の固有名詞をポーランド語式に読む時には逆の現象が起こることがあります。たとえば筆者自身の経験ですが、その昔、都内でポーランド人に「キヒヨイ駅に行きたいんだけど」と尋ねられた時は、一体どこに行きたいのか理解するのにさすがに少々時間がかかりました(ちなみにその駅は「Kichijoji(吉祥寺)」のことでした)。

人名も例外なく格変化します

音楽の世界に話を戻しますが、たとえばポーランド語で「誰それの作品を演奏する」などという話をする時、「~の」の意味にするために、作曲家名(男性の場合)の語尾に一文字「a」が足されるという格変化が起こります。そうすると、フランス人名によくありがちなのですが、主格のときには原語読みを尊重して、例えば「Bizet(ビゼー)」と読むところを、「ビゼーの音楽」となった瞬間に「muzyka Bizeta(ムズィカ・ビゼタ)」のように、もともと語尾にあった「読まない子音を読む」ようになってしまうんです!

さあ、突然ですがここでクイズです。「誰それの作品」という話をポーランド人としていたら、「マスネタ」、「マレラ」、「ミハウダ」などと聞こえてきました。一体それぞれどの作曲家のことを指すでしょう?!

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答えはこうです。

「マスネタ(Masseneta)」はジュール・マスネ、「マレラ(Mahlera)」はグスタフ・マーラー、「ミハウダ(Milhauda)」はダリウス・ミヨーなのでした。ミヨーあたりは原語の綴りを知らないとなかなか手ごわいですね。

会社名? もちろん格変化します

さて、この秋にはワルシャワで「第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクール」が開催されます。本家の「ショパン・コンクール」と違って、ショパンの時代のピアノで、ショパンを中心とした作曲家の作品演奏を競い合う、というものです。

ショパンの弾いた楽器として有名なプレイエル社やエラール社、ウィーン製などのピアノが主催者により用意され、出場者は各々、その中から演奏楽器を選ぶというシステムです。コンクールの開催要項からこのことを書いた部分をちょっと見てみましょう。

第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクール公式サzイト(https://iccpi.pl/pl)の開催要項より一部抜粋

注目してほしいのは赤い枠線で囲んだところです。「エラール、プレイエル、あるいはブロードウッドの各社が製造したピアノ」という趣旨が書かれた部分ですが、ここも先ほどの作曲家名と同じく、どれも語尾に「a」がくっついていますね。

なんとポーランド語では会社名なども、例外なく格変化を起こしてしまうのです。読みはそれぞれ「エラルダ」、「プレイエラ」、「ブロードウッダ」。

Erardは主格だと語尾のdを発音しない仏語読みのままに、「エラル」と発音するのがポーランド語でも一般的なのですが、語尾に「a」が付くことでこのdを発音しないわけにはいかなくなって、「エラルダ」と読むことになるんですね。

そしてさらに、「彼はエラールで演奏する」などと言おうものなら、こうなってしまいます――「Gra na Erardzie(グラ・ナ・エラルヂェ)」。「エラルヂェ」と聞いてそれがエラール社のピアノのことを指すとは、知らないかぎりは想像もつかないでしょう!

こんな驚きいっぱいのポーランド語。でもこの言葉を、ショパンは話していたんです。今秋のコンクールはWeb上など各種メディアで同時配信される予定とのことですので、ショパンが当時演奏し、耳にしていたはずのピリオド楽器の響きとともに、合間に聴こえてくるポーランド語の響きも、是非楽しんでみていただければと思います。

5年前の2018年に開催された第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールの模様を紹介したWeb記事の一部(https://chopin.polskieradio.pl/artykul/2188921))。赤い枠線で囲ったところにまさに「エラルヂェ」とある。またその並びには、同コンクール第2位に輝いた川口成彦さんの姓が「Kawaguchiego」と格変化している様子も見ることができる。ちなみにこの記事の中にはほかにも、PleyelやBuchholtz(ショパンがワルシャワ時代に弾いたピアノ)が格変化した形で登場している。
平岩理恵
平岩理恵 ポーランド語通訳・翻訳家

東京外国語大学大学院修士前期課程修了。ワルシャワ大学音楽学研究所に政府給費留学(2001~03年)。ポーランドの舞曲やモニューシュコを研究。訳書 『ショパン家のワルシ...

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