《トスカ》~注文魔プッチーニ!「オペラ向きでない」台本が変えた未来
2024年に没後100年を迎えたジャコモ・プッチーニ、現代においてもっとも上演回数が多く、たくさんの人々に愛されるオペラ作曲家です。記念すべき今年、オペラ・キュレーターの井内美香さんが彼の作品と人生を併せて「大解剖」していきます。
第3回はとくに上演回数が多い人気作《トスカ》。原作『ラ・トスカ』はオペラに全然向いていない? 先に作曲権を持っていた作曲家や台本作家が音を上げる中、プッチーニが見据えていたのは未来のオペラ?
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...
フランス革命期、1800年のローマ。革命思想を持った画家カヴァラドッシは脱獄した政治犯アンジェロッティを逃がそうとする。アンジェロッティを追う警視総監スカルピアは、逃亡に手を貸したカヴァラドッシを逮捕し、彼の恋人トスカに愛する人の命と引き換えに自分と一夜を過ごすよう迫る。思い余ったトスカはスカルピアを殺害し、カヴァラドッシと二人、逃避行を実行しようとするが…。
戯曲『ラ・トスカ』に見出した「音楽過多に陥らない」オペラ
プッチーニの超人気オペラ《トスカ》。 彼と《トスカ》の出会いは、このオペラが初演された1900年よりずっと前にさかのぼります。プッチーニは1889年に、ミラノとトリノで上演されていたフランスの劇作家サルドゥの芝居『ラ・トスカ』を観ました。
トスカ役を演じていたのは名優サラ・ベルナール。パリの初演でサルドゥはベルナールにこの戯曲を当て書きしています。初演は1887年ですから、話題の舞台が2年後にはもうイタリアでも上演されたわけですね。
プッチーニがこのドラマに惹かれた理由は、彼が数か月後に音楽出版社リコルディの社主ジュリオ・リコルディに送った手紙に明らかです。
「《トスカ》は私にふさわしいオペラだと思うのです。規模が大きすぎず、ドラマには余計な枝葉が無いし、よくあるような音楽過多に陥らないですみます」(1889年5月7日の手紙)。
プッチーニはリコルディに、できるだけ早くサルドゥからオペラ化の権利を獲得してくれるように頼みます。
リコルディはパリにいる代理人を通じてサルドゥに連絡をとり、高くふっかけられながらもこのドラマをオペラ化する権利を得ます。ところがプッチーニはこの時、作曲家としてはまだ《ラ・ボエーム》も発表していない駆け出し。サルドゥはプッチーニがこの戯曲をオペラ化することをOKしませんでした。リコルディはすでに成功者だったアルベルト・フランケッティに作曲を依頼します。
「オペラ向きでない」題材にお手上げのライバルから作曲権を奪う
しかしプッチーニが《トスカ》をオペラ化したかった理由である、「ドラマには余計な枝葉が無いし、よくあるような音楽過多に陥らないですむ」という特徴は、当時の台本作家や作曲家たちにとって、オペラ化するにあたっての障害となりました。フランケッティのために台本を書くことになったイッリカがまず、リコルディに「ドラマ自体が大きすぎて台本に収まりきらない」(1895年1月12日の手紙)と嘆いています。
イッリカはなんとか台本を完成させますが、フランケッティの作曲もまた進みませんでした。彼はリコルディに「抒情的なパートが作曲しにくい」とこぼし、リコルディはイッリカに解決策を探すよう指示しています。
フランケッティは莫大な富を持つ男爵家に生まれ、ワーグナーやマイヤベーアなどに影響を受けたスタイルを持つ作曲家でした。それまでに《クリストーフォロ・コロンボ》などのオペラを発表し、当時としてはプッチーニよりも成功している彼のライバルだったのです。
プッチーニより2歳年下ながら、1892年のオペラ《クリストーフォロ・コロンボ》で先に成功を収めていた
具体的にはどのような理由だったのか資料は残っていませんが(いろいろと裏の手を使ったという説あり)、ある時点でフランケッティは《トスカ》の作曲から手を引き、このオペラはプッチーニが作曲することになります。同年(1895年)8月に、プッチーニは友人への手紙で「《トスカ》は僕が作曲することになったよ!」と喜びを述べています。
注文魔プッチーニ、イッリカ、ジャコーザのゴールデン・トリオが再集結
サルドゥの戯曲『ラ・トスカ』は全5幕で構成されていましたが、オペラの台本は全3幕。戯曲とは構成もかなり違っています。一番大きな違いは、政治的、社会的な内容を背景に追いやってしまい、主人公たちの愛、嫉妬、憎悪などの感情が大きく強調されていることです。
台本チームにはイッリカに加えて、《ラ・ボエーム》でも組んだジャコーザが参加します。台詞を美しい韻文に整えるためです。初めのうちジャコーザは、「この戯曲はオペラ化にはまったく向いていません」「なぜならこの物語は次々事件が起こり、アクションしかないので、オペラに必要な抒情的で詩的な場面を作るのは無理なのです」(1896年8月23日の手紙)と難色を示しました。しかしリコルディがジャコーザを説得します。
前作《ラ・ボエーム》から、オペラの作劇に深く関わるようになったプッチーニは《トスカ》に関しても遠慮なく大量の注文を出しました。
中でも第3幕は、ジャコーザが書いた、カヴァラドッシが手紙を書きながら歌う部分をカットしてオーケストラに置き換えたり、その後のカヴァラドッシとトスカの二重唱でイッリカが書いた「ラテン讃歌」と呼ばれるラテンとローマを賛美する部分をカットしたり大鉈をふるい、そしていつもプッチーニの味方だったジュリオ・リコルディが「こんなに切れ切れのフレーズのみでは肝心の二重唱が台無しです」と忠告してくれたのにも「それこそ私が望んだことです」ときっぱりと答えています。
プッチーニは第3幕において二人が信条や愛を朗々と歌い上げるよりも、彼らの悲しみや不安に満ちた精神状態を表現することを選びました。プッチーニが書いた音楽は、来る20世紀に向けた先進的な、強烈な”ドラマ”の表現だったのです。
永遠の都ローマが舞台の作品をご当地で初演
《トスカ》はオペラ初演のちょうど100年前のローマが舞台です。それもあって初演はローマのコスタンツィ劇場(ローマ歌劇場)で行なわれることになります。
細部まで手を抜かないプッチーニは、第1幕最後の合唱テ・デウムや、第3幕に出てくるサン・ピエトロ大聖堂の鐘の音の資料をローマの知人から送ってもらいます。
《トスカ》〜第1幕「テ・デウム」 ローマ歌劇場での上演
プッチーニのお気に入りだったルーマニアのソプラノ、ハリクレア・ダルクレがトスカ、強い声のテノール、エミーリオ・デ・マルキがカヴァラドッシ、演技派のエウジェーニオ・ジラルドーニがスカルピアを初演します。
1900年1月14日の初日には王妃マルゲリータ、首相ペルー、文部大臣バッチェッリが臨席。音楽家ではマスカーニ、チレーア、作曲権を譲ったフランケッティなども来場して、大変な注目を集めた行事でした。初演はそれなりの成功となります。
初日の後に出たコリエレ・デッラ・セーラ新聞の評論には「次々起こる事件を追うために音楽の領域が狭められている。音楽の装飾の余地がない。《トスカ》はすべてが暗く、悲劇的で、恐ろしい」とあります。
でも、ここでプッチーニが《トスカ》を作曲したかった理由を思い出してほしいのです。「ドラマには余計な枝葉が無いし、よくあるような音楽過多に陥らないですみます」。時代はやがて、プッチーニに追いついていきます。
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