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2022.12.14
川口成彦の「古楽というタイムマシンに乗って」#7

作曲家が書いた速度表記を信じるか? メトロノームの歴史からテンポについて考える

第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで第2位入賞された川口成彦さんが綴る、「古楽」をめぐるエッセイ。同コンクール第2回が開催される来年10月まで、古楽や古楽器に親しみましょう!

川口成彦
川口成彦 ピアノ・フォルテピアノ・チェンバロ奏者

1989 年に岩手県盛岡市で生まれ、横浜で育つ。第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位、ブルージュ国際古楽コンクール最高位。フィレンツェ五月音楽祭や「ショパン...

バルトークの《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》演奏風景。實川風さん、安藤智洋さん、ヤン・ルー・ハメルスマさんと(2017年)。
個人練習のときメトロノームにとてもお世話になりました。

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楽譜に書かれたメトロノーム表記と現代人がもっているイメージのギャップ

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現代の我々の感覚からすると驚くようなことが、昔はたくさんありました。例えば17世紀になってもパリにはトイレが少なく、宮廷の人も含めたほとんどすべての人が階段やバルコニーなどで用を足すことに何の恥じらいも感じていなかったそうです。また平安時代には髪の毛を頭頂部で束ねた髻(もとどり)を見られることは、元服した男性にとって非常に恥ずかしいことだったようで、入浴の際にふんどしを外すことはできても帽子は絶対に外せなかったとか……。

今と昔で感覚や価値観が違うことは、音楽においてもいろいろあります。それゆえ、18世紀や19世紀の感覚への融和性を持ち合わせた演奏者の演奏解釈の中には、現代人の感覚からすると、驚きにあふれた創造性を感じられるものもあります。

アカデミックな考察をしたうえで演奏する場合、「これは私の知っている○○ではない!」という現代人からの批判もウェルカムな状態で、演奏者は自分自身の演奏に対する確固たる意思の強さが必要です。真新しいものを現代の聴衆に提示できたとしたら、それは時代考察をする演奏家にとっては、このうえない喜びだと思います。

現代人のマジョリティが作り上げた「普通」の感覚からして、「これは本当だろうか」と昔の感覚を疑ってしまうものの一つに「テンポ」があります。僕は今この12月から来年の3月にかけて何回か演奏するシューマンの《子供の情景》Op.15や《アラベスク》Op.18をちょうど勉強中ですが、彼の書いた、あるいは彼が容認したメトロノーム表記に関して毎日のように考えを巡らせています。

例えば、第7曲「トロイメライ」には ♩=100 と記されていますが、これは今日の多くのピアニストが演奏している速度に比べるとかなり速くて、このテンポではまったく違う曲調になるほどです。また「トロイメライ」に限らず、他の曲も自分が子どもの頃から馴染んできた有名ピアニストたちの録音のテンポより速いものが多く、自分はどのようにこのメトロノーム表記を解釈しようかと考える日々です。

1839年の《子供の情景》初版譜には、メトロノーム記号が記載されていませんでしたが、初版の第2刷の際に作曲者の意思とは関係なく、出版社の意向によりメトロノーム記号が書かれました。しかし、世界的なシューマン学者の一人であるミヒャエル・シュトルックが語るように、それ以降の楽譜の校正において、作曲家自身がメトロノーム記号の削除や変更を行なっていないということは、シューマンがその速度を容認していたということであり、《子供の情景》のメトロノーム記号は十分尊重し得るものだと言えるでしょう。

シューマン「トロイメライ」
メトロノームの指示に近い録音(パウル・バドゥラ=スコダ)

メトロノームの指示よりも大分遅い録音(マリア・ジョアン・ピリス)

《アラベスク》最後の「結びに(Zum Schluss)」のセクションも、遅いテンポ表記をイメージさせるLangsamの表記があるにもかかわらず、メトロノーム表記では2部音符=58とかなり速いテンポが書かれています。シューマンが所有していたメトロノームは壊れていてテンポが正確でなかったという説もありますが、音楽批評家でもあった一流作曲家が、自分のメトロノームが壊れていることを認識せずに、出版譜にメトロノーム記号を書き込むようなヘマをするのでしょうか。

ショパンのエチュードはダブルビート? シングルビート?

メトロノーム問題はシューマンだけではありません。ショパンの「練習曲 Op. 10-3 (別れの曲)」や「練習曲 Op. 25-7」など、今日のピアニストが比較的ゆっくりと演奏する印象のある作品も、楽譜に書かれたメトロノームの表記ではそれぞれ♪=100、♩=66と随分速いのです。「これは何かの間違いでは……」と思ってしまいます。

実際に「これは何かの間違いだ」と思っている人の中には、19世紀の作曲家にはメトロノームの振り子の往復運動を1とカウントする「ダブルビート」も採用されていたという説を唱えている人もいます。そしてYouTubeではダブルビートで捉えたショパンの練習曲の遅い演奏こそ、作品の真の正しい解釈だと実演も交えて発信している方も見かけます。

しかし、初見であらゆる曲を弾きこなせたと言われるリストが、この練習曲たちを初見では弾けず、練習のために数週間雲隠れしたという逸話を考えると、0.5倍速になるダブルビートで作品を捉えることには納得がいきません。0.5倍速でしたら現代の天才少年少女でも初見で弾けてしまう人がいるような気がします。

さらには、ショパンの孫弟子のラウル・コチャルスキ(1885〜1948)がショパンの練習曲をシングルビート(振り子の片道で1と捉える)に適応した速度で弾いています。やはり彼の練習曲はシングルビートでカウントしていいと僕は思います。

メトロノームの発明によって作曲家が定めたテンポが明らかに

メトロノームは、オランダのディートリヒ・ニコラウス・ヴィンケル(1777〜1826)が1814年に原型を発明し、1815年にヨハン・ネポムク・メルツェル(1772〜1838)により改良されて世の中に広まりました。メルツェルのメトロノームは、ベートーヴェンをはじめとする当時の作曲家を喜ばせる画期的なもので、多くの作曲家が楽譜にメトロノームのテンポ表記を記入するようになりました。

メルツェルが1815年に開発したメトロノーム

1828年にウィーンで出版されたフンメルの《ピアノ奏法のための詳しい理論的・実践的手引き Ausf hrliche theoretisch-practische Anweisung zum Piano-Forte Spiel》第3巻に、メトロノームに関する記述があります。

メトロノームの速度数に合わせてテンポを記入すれば、自分の作品がどの国でも同じテンポで演奏されるようになる。これまでは作曲家が音楽用語をせっかく慎重に選んでも、演奏する速度が速すぎたり眠くなるほど遅すぎたりしたため、その作品の効果が損なわれることがしばしばであった。しかしメトロノームが普及するようになれば、このような弊害は生じなくなるであろう。

演奏家と音楽愛好家は、メトロノームのおかげで作曲家の定めた正確なテンポを知ることができる。

(朝田倫子訳)

しかし、現代の我々が迷子になっているシングルかダブルかのメトロノームのカウント方法に関する記述はこの著書には一切ありません。

1839年に出版されたツェルニーの《ピアノ教本》Op.500第3部に書かれているメトロノームの使用方法についての解説を読んでみると、例えば♩=112 の場合はすべての四分音符を、♪=112の場合はすべての8分音符を、メトロノームが打つ拍子に正確に合わせて演奏するよう書かれています。

僕は「メトロノームが打つ拍子」というのは「振り子が片道分動いて発する音」と捉えるのが自然だと思います。予備知識がない人も対象にしたピアノ初心者向けの入門書にもメトロノームのカウントの仕方に関する記述がない状態で、誰が一体ダブルビートを想像するでしょうか。

メトロノームは非常に画期的な発明なのに、現代の人間がメトロノームのカウント方法でシングルかダブルか迷子になって、作曲家の定めたテンポがわからなくなっているとは、なんともおかしな話です。

楽譜のテンポ表記通りに弾くと見えてくる景色

昔は今よりメトロノームの性能が悪かったため、テンポが違う可能性があるという話も聞いたことがあります。しかし、メトロノームが示す数字というのは「1分間に何回振り子が音を鳴らすか」であり、1分という時間が今と昔で違わない限り、本来はテンポが異なることはありません。そして問題がありそうなときには、時計さえあれば、いつでもメトロノームの具合をチェックすることができます。

もし昔のメトロノームが信用ならないのであれば、ベートーヴェン、フンメル、ツェルニーのメトロノームに対する信頼と絶賛はなにゆえだったのでしょうか。しかし、万が一今と昔のメトロノームのテンポが違ったとしても、楽譜に書かれたメトロノーム記号は、その作品が遅いのか速いのか大まかには伝えてくれているでしょう。

ツェルニーが上記著書で述べる「メトロノームは第一に、作曲家が望んだテンポを極めて正確に知ることが出来、将来にまでそれを残すことが出来ます」(岡田暁生訳)という言葉を受け止めると、《子供の情景》や《アラベスク》も、表記通りのテンポ(もちろんシングルビートのカウント)で弾いてみたいと僕は最近ようやく思うようになってきました。そして、実際に演奏してみると、楽譜に記載されたテンポに自分の感覚がすんなり適応できて、自分が今まで感じていた作品の情景とは違う美しい景色が見えてきました。

またシューマンが書いたritard.(ritardando)やrit.(ritenut0)などのテンポを変化させる指示が、よりドラマ性を帯びるものに感じられます。20世紀の演奏家たちによる自由な解釈で築き上げられた作品像というのは、現代の我々に大きな影響を与えていますが、そういったものから解放されたまっさらな状態で作品に触れてみることは、作曲家の真意を探るために、やはり大切なことだと思いました。

ベルギーを代表するフォルテピアノ奏者の一人であるヤン・フェルミューレンが、メトロノーム表記を尊重した演奏をシューマンの時代のトレンドリンのピアノで録音しています。メトロノーム表記よりやや遅めに演奏している作品も何曲かありますが、メトロノーム表記を重んじた演奏としておすすめの録音の一つです。

ヤン・フェルミューレン『シューマン:ピアノ作品集』

またパウル・バドゥラ=スコダの録音は、数多くのピアニストのなかでもメトロノームの指示にもっとも寄り添っている貴重な録音です。

パウル・バドゥラ=スコダ『シューマン:子供の情景、森の情景、謝肉祭』

音楽はメトロノームに縛られることなく自由に

ところでメトロノームは、速度を知るのに大変便利な道具ですが、19世紀から「感情に任せずにメトロノームの一定の動きに合わせて作品全体を弾かなければならない」と勘違いしている人もいたようです。フンメルは上述の著書で、そのような人たちに対して警告をしています。現代を生きる我々も、メトロノームはあくまでも作品のベースとなるテンポを把握するための道具、または練習の補助器具だと認識すべきで、音楽はメトロノームに縛られることなく自由でなければいけません。

また今日のメトロノームに速度用語も記載されている場合、AndanteよりAndantinoのほうが速く記されていますが、テュルク(Daniel Gottlob Türk、1750〜1813)の『クラヴィーア教本』(1789年出版)ではAndantino の方がAndanteよりも遅いと記されています。古典派から前期ロマン派の作品を演奏する場合には、Andantinoについて考える必要があります。ウェーバーの連弾曲集『6つのやさしい小品』Op. 6の第2曲「ロマンツァ」のテンポ表記はAndantino, quasi Adagioであり、ウェーバーもAndantinoを遅く捉えていた可能性があることがわかります。

音楽用語における速度表記は、速度というよりも楽曲のキャラクターを示していると考えたほうがいい場合もあるのです。そのため、メトロノームに示された音楽用語は、あくまで目安でしかないことも頭に置いておくべきでしょう。

ダニエル・ゴットロープ・テュルク(1750〜1813)
父親から音楽の手ほどきを受け、オルガニストや作曲家として活躍したほか、ハレ大学初の音楽監督を務めた。また優れた教育者としても名を馳せた。

話は変わりますが、メトロノームを開発したヴィンケルやメルツェルは、自動演奏機械を作ったことでも知られています。メルツェルは1805年にパンハルモニコンと呼ばれる巨大な機械仕掛けの自動オルガンを開発し、ヴィンケルはパンハルモニコンを複製して2度と同じ音楽を奏でない驚くべきシステムを搭載したコンポニウムを1821年に作りました。

ベートーヴェンの管弦楽曲《ウェリントンの勝利》Op.91は、もともとメルツェルの依頼でパンハルモニコンのために作曲されました。パンハルモニコンは、あらゆる楽器の音だけでなく、銃声や大砲の音まで模倣できたと言われています。パンハルモニコンは第二次世界大戦の空襲で焼失しましたが、コンポニウムはベルギーの楽器博物館にて見ることができます。

コンポニウム(1821年)
パンハルモニコン
川口成彦
川口成彦 ピアノ・フォルテピアノ・チェンバロ奏者

1989 年に岩手県盛岡市で生まれ、横浜で育つ。第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位、ブルージュ国際古楽コンクール最高位。フィレンツェ五月音楽祭や「ショパン...

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