通の助言という呪い~クラシック入門者の芽を摘まないで
音楽って本当に良いものなのか!? 『絶望名人カフカの人生論』『絶望読書』( 飛鳥新社・刊)で、ポジティブ一辺倒の風潮にうんざりしていた人たちの心を鷲掴みにした頭木弘樹さんが、「トラウマな音楽」について語る新連載、スタートです!
記憶と結びつきやすい音楽。写真を見るより、よく聴いていた音楽を聴くほうが、その当時に見た風景や感情が色鮮やかに蘇ってくる、なんてことありませんか。良い思い出ばかりならいいのだけれど、残念ながらトラウマと結びついちゃった音楽たち……。悲しい記憶を呼び起こす音楽とともに、さあ参りましょう、トラウマの世界へ……。
筑波大学卒業。大学三年の二十歳のときに難病になり、十三年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社/新潮文...
トラウマ音楽とは?
音楽というのは、思い出と結びつきやすいものです。
10代のときに聴いた音楽を久しぶりに聴くと、10代の頃の思い出がわあっとよみがえってきたり。
良い思い出とだけ結びつけばいいのですが、どうしたって良くない思い出と結びつくこともあります。
失恋したときに聴いた曲を聴くと、そのときの悲しみまでよみがえってきたり。
そういうマイナスの思い出や感情と結びついている曲に、仮に「トラウマ音楽」と名前をつけて、これからご紹介していきたいと思っています。
私自身のトラウマ音楽や、他の人のトラウマ音楽を。
「なぜ、よりによってそんな音楽を?」と思われるかもしれません。「いい思い出と結びついた曲を紹介すれば?」と。
たしかにその通りなのですが、素敵な音楽の紹介は、音楽の専門家や音楽に詳しい人がやったほうがいいと思います。
私は文学方面の人間で、音楽については、まったくの素人です。
それでも縁があって、ここで書かせていただくことになったので、じゃあ、音楽が大好きな人は書きそうにないことを書かせていただこうかなと思いました。
「音楽っていいものですよね」ではなく、「音楽って本当にいいものなのかな?」と首を傾げるところから始まる、よもやま話です。
たくさんの連載の中に、そういうのもひとつくらいあってもいいんじゃないかなと。
よろしかったら、おつきあいください。
家に音楽がなかった
私の家は、音楽を聴かない家でした。
家にピアノなどの楽器もなく、オーディオもありませんでした。
テレビから歌謡曲やドラマの主題歌やCMの曲などが流れてくるだけです。
ところが、小学校高学年のとき、倉庫で古いレコードプレーヤーを見つけました。
長方形で、左右がスピーカー、真ん中がアンプ、上のふたを開けるとレコードがかけられるという、一体型です。
ちょっと人の顔にも見えました。左右のスピーカーがほっぺで、真ん中が目鼻。上のレコードプレーヤーが頭。
音楽がどうこうというより、その「機械」の面白さに惹き付けられました。それで、音を出してみたくなったのです。
初めて街のレコード屋さんに入りました。
店内にはレコード独特のにおいが満ちていて、ちょっと気難しそうな大人や青年がレコードを見ています。
音楽の素養がまったくない小学生の私でも、ベートーヴェンとモーツァルトの名前は知っていました。
ベートーヴェンは顔がこわいのでやめて、モーツァルトに。
でも、交響曲何番というのがずらりとあって、まず何番を買えばいいのかわかりません。
すると、《ジュピター》と書いてあるのがありました。
もう1枚は、シューベルトの《未完成》を買いました。知っていたわけではなく、「未完成」という曲名に驚いたからです。未完成なのに売っているとはと。
家に帰って、初めてレコードに針をおとしてみました。
いい曲だなあと、感動したような気がしました。
レコード2枚というのは、当時の小学生にはかなり高額で、当分の間、節制生活です。そういう犠牲を払って、手間暇かけて、ようやく音がしているのですから、それで感動するような気がしただけかもしれません。
とにかく、クラシックもいいもんじゃないかと、少し理解できたような気がして、嬉しくなりました。
学校で凹まされる
そこでやめておけばよかったのですが、つい学校でその話をしてしまいました。
「モーツァルトの交響曲第41番ジュピターを聴いてね」などと自慢気に。
クラシックを聴いている子なんて、そうはいなかったので、「へーっ」なんて感心されて、ますます得意になり、「未完成という曲もあってね」なんてしゃべっていると、そこにいかにも知的な子がやってきて、
「誰の指揮で、どこの交響楽団?」と聞いてきました。
私は虚をつかれました。そんなことはまったく意識していなかったのです。
そのことに、その子も気づいたらしく、
「クラシックはね、指揮者と演奏者で、ぜんぜんちがうんだよ。いい演奏を聴かないと、意味ないんだよ」と言いました。
彼が少しいじわるな気持ちで言ったのか、それともまったくの親切心で教えてくれたのか、それはわかりません。
ただ、私は大いに凹んでしまいました。
ちゃんと選ばずに買った自分のレコードは、きっとたいしたことのない演奏だと思いました。
たいしたことのない演奏で得られる感動は、たいしたことはないはずで、それで喜んでしまっていた、たいしたことはない自分……。
家に帰ってレコードをかけてみても、もう前のようには心が躍りません。
ここで、立派な人間なら、「指揮者や交響楽団についても詳しくなって、今度はもっといい演奏を聴いてみよう!」と、さらに好奇心を燃やすのでしょう。
しかし、水をかけられた焚火みたいになってしまった私は、もうとても勢いよく燃えることはできませんでした。
わかってないなと思っても、その火を消さないように
トラウマと呼ぶには大げさな、幼い頃のささいな思い出ですが、私にはいい教訓になりました。
たとえば、落語の通の人は、初心者が何か聴いて「すごく面白かった!」と興奮していると、「あれはね、それほどのものじゃないんだよ。あの名人のこの噺を聴いてごらん、すごいから」などと、親切心から教えたりします。
私も大の落語ファンで、雑誌で落語についての連載もしていたほどなので、そういう言葉が喉元まで出かかります。でも、決して言いません。それがどれほど、新しいファンの芽をつむことになるか、よくわかっているからです。
通の助言という呪いを、かけてはいけないと思うのです。
あなたはそういうトラウマ、ありませんか?
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