ヴィヴァルディの生涯~ヴェネツィアに生き、女子教育に尽力した赤毛の司祭
アントニオ・ヴィヴァルディ~17世紀のイタリア・ヴェネツィアに生まれ、ヴァイオリンの名手ながら聖職者の道へ、それでいて膨大な数の名作を残した「赤毛の司祭」とはどんな人物だったのでしょうか?
ドイツ・ケルン音楽大学を経てケルン大学で音楽学科修士修了(M.A)。専門はピアノ曲やオーケストラ等クラシック全般だが、とくにバッハを始めとするバロック音楽、古楽演奏の...
「ヴェネツィアの赤毛の司祭」こと、アントニオ・ヴィヴァルディ(1678年~1741年)。《四季》を始めとするヴァイオリン協奏曲を国内外で出版。その名声はアルプスを越えて欧州中にとどろき、とりわけ3楽章構成のイタリア様式の独奏協奏曲の確立に大きく貢献しました。
ここではまず、ヴィヴァルディの生涯を振り返ってみましょう。
「赤毛の司祭」ヴィヴァルディの生涯
ヴィヴァルディは1678年3月4日に北イタリアのアドリア海に面したヴェネツィアに生まれました。ヴェネツィアは遠浅の潟です。古来人々はそこに土台を作り、家を建てて町を建設しました。まさに水の都、交通手段はゴンドラなどの船です。そのためヴェネツィアの人々は船を作り、操縦する技術にたけ、地中海の入り口に位置することもあって中世からルネサンス期にかけて海洋貿易で栄えました。
ヴィヴァルディの時代のヴェネツィアにタイムトリップをしたい方はヴェネツィア出身の画家カナレット(1697年~1768年)の絵画がお勧めです。本名ジョヴァンニ・アントニオ・カナール、「アドリア海の女王」と謳われる海の都の風景画をたくさん残しました。人や建物が克明に描かれた絵画を見ていると、当時のヴェネツィアに迷い込んだようです。
赤毛は情熱の証?
ヴィヴァルディのお父さんのジョヴァンニ・ヴァッティスタ・ロッシ・ヴィヴァルディは理髪外科医でしたが、やはり音楽が大好き。ヴァイオリンが得意で聖マルコ寺院や貴族などの邸宅で演奏し、ヴァイオリンの先生もするほどでした。
アントニオはそんなお父さんのもとに9人兄弟の長男として生まれました。当時のエピソードでしばしば紹介されるのが、一家の多くが赤毛だったこと(多くがお父さんのミドルネームに「赤」を意味する「ロッシ」がついているのも象徴的ですね)。
昔のヨーロッパでは赤毛の人は情熱的な性格の持ち主とされ、小説などでもしばしば赤毛の人たちは自由奔放で悪戯好きと書かれています。実際、ヴィヴァルディ家の次男フランチェスコは貴族に無作法なことをした廉(かど)でヴェネツィアを追放され、三男イセッポは食料品屋の少年と短剣でふざけていて軽傷を負わせて逃亡するなど、ずいぶん人騒がせな一家だったようです(もちろん赤毛の方がみなさんそういうわけではありません。念のため)。
父の意向でいったんは聖職者に
さて、アントニオは少年時代からお父さんの意向で音楽と司祭になる教育を受けて下級の司祭になりました。音楽家は不安定な職業ですから、お父さんは聖職者になっておけば将来が安心と考えたのでしょう。ところが、生まれたときから虚弱体質で喘息ぎみだったこともあって、司祭の仕事は自分からあまり進んでしませんでした。
1810年に書かれたフランスの事典にこんな記述があります。「ある時ヴィヴァルディがミサを執行していると、フーガのテーマが頭に浮かんだ。そこでミサを途中でやめて祭壇を離れ、そのテーマを書き留めるために聖具室に駆け込んでミサを続けた。人々は異端裁判所に告発したが、裁判所は彼を音楽家、要するに気違いだからしかたがないと結論して以後ミサの執行を禁止させられた」。
結局、ヴィヴァルディは1703年に当時のヴェネツィアにあった4つのオスペダーレ(慈善院、養育院、貧窮院などと訳されます)の一つ、ピエタ慈善院で音楽教師、とりわけヴァイオリンを教える仕事に就きます。
慈善院は経済的な事情などで親が手放した赤子を引き取って育てる施設。実は女子だけではなく男子もいましたが、男子はたいてい手に職をつけて16歳ころには外に出され、女子は結婚するまで同院で暮らしました。
上:ピエタ慈善院があった場所は現在ホテルになっている
教育でとくに力を入れていたのが、女子の音楽です。なにしろ指導者はヴィヴァルディを始めとする優れた音楽家たちですから、彼女たちの合唱や器楽の演奏の水準はひじょうに高く、同院の主催する音楽会はヴェネツィアの定期刊行物で紹介され、地元の人々はもちろんのこと、当地を訪れた観光客や音楽通の人々でにぎわい、ピエタの重要な収入源となっていました。聴衆のなかには外国の王侯貴顕や音楽家、文人たちがいて、その様子は彼らの旅行記などで伝えられています。
なかでも人気を博したのは、ヴァイオリンなどの器楽の合奏でした。ピエタからはアンナ・マリアなど、外国の音楽事典に記載されるようなスター音楽家も輩出。そんなピエタの女性たちのためにヴィヴァルディは数多くの協奏曲やソナタを書きました。おそらく特定の弾き手を想定して書いていたのでしょう。冒頭ページ等に先の「アンナ・マリアのために」などと書かれた楽譜もあり、こうした曲から彼女たちの演奏を偲ぶことができます。
ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク蔵)
ちなみにヴィヴァルディの協奏曲は500曲以上。そのうち約350曲が独奏楽器と弦楽合奏のためのもので、そのうち230曲以上がヴァイオリン協奏曲。他のソロ楽器はファゴット、チェロ、オーボエ、フルート、ヴィオラ・ダモーレ、リコーダー、マンドリンなどです。
オペラの世界へ、そして不遇な晩年
このように当時からヴァイオリンなどの協奏曲の作曲家として知られたヴィヴァルディですが、本当にやりたかったのはオペラでした。
1600年頃にイタリアのフィレンツェで誕生したオペラはその後ヴェネツィアなどイタリア諸都市でもっとも華やかなエンターテインメントとなりました。ヴィヴァルディは1710年頃にはすでにオペラの世界に入り、ヴェネツィアのサンタンジェロ劇場などで作品を上演。しばしば自作を携えてイタリア各地を巡り、人気を博しました。
けれども音楽は時代の流行に左右されやすいものです。次第に人気に陰りがさし、最晩年に起死回生を図ってオーストリアなどを巡り、ウィーンで客死しました。
関連する記事
-
途上国で教えたいという夢からタイへ! 大学で教えながらオーケストラの演奏活動にも...
-
クラシック音楽は「曲名」を知るともっとおもしろい!
-
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団来日公演 2025年11月決定!指揮者、曲目情...
ランキング
- Daily
- Monthly
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly