読みもの
2021.08.21
特集「ロックと、ジャズと、クラシックと」

若者に支持を誇るヨルシカが問う「盗作」の意味〜クラシックにもある盗作と破壊

若者を中心にブームを起こしている2人組ロックユニット「ヨルシカ」。彼らの作品のおもしろさは、音楽に秘められた物語性や、他の芸術作品との関連性にあります。今回はクラシック作品を大胆に引用した、昨年リリースしたアルバム『盗作』に焦点をあててご紹介します。

桒田萌
桒田萌 ライター

1997年大阪生まれ。夕陽丘高校音楽科ピアノ専攻、京都市立芸術大学音楽学専攻を卒業。音楽をはじめとする、幅広いジャンルで取材・執筆を行う。『まいどなニュース』『デイリ...

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現代のポップシーンにも香るクラシカルな匂い

現代のポップシーンをのぞいてみると、多くのリスナーを席巻するアーティストの作品に、クラシカルな要素を垣間見る瞬間がたびたびある。

例えば、東京2020オリンピックの閉会式に登場したシンガーソングライターのmiletは、自身の音楽はクラシックによる影響があることを公言している。さらには数々の金字塔を残し続ける米津玄師の作品には、西洋思想のベースにある聖書の匂いを感じる。

ところが「垣間見る」程度では済ませず、クラシックを明確に登場させたのはヨルシカだ。

ヨルシカ

2017年に結成された、ボカロPのn-bunaと女性シンガーのsuisによるバンド。2019年に『だから僕は音楽を辞めた』『エルマ』、2020年に『盗作』をリリース。2021年夏に「又三郎」「老人と海」を発表している。
n-bunaによる文学的な歌詞とギターサウンド、suisの透明感ある歌声が特徴的。

ヨルシカとは、ボーカロイドの作曲家「ボカロP」だったn-buna(ナブナ)が、女性シンガーのsuis(スイ)と結成したロックユニット。

アコースティックなギターロック、透明感あふれる特徴的な歌声など、彼らのサウンドに魅力は尽きない。さらに多くの人々を惹きつける引力となっているのが、n-bunaが書く音楽に内包される物語性だ。

20207月に発表したアルバム『盗作』も、その一つ。このコンセプトアルバムには、主人公がいる。既存の楽曲からメロディやコードなどを盗み、組み替えて作曲をする「音楽泥棒」だ。

アルバム『盗作』トレイラー

14曲を通して、盗み/表現への衝動、その動機と懐古、そして逃亡が綴られる。
そしてそのロックサウンドの中に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番《月光》(『音楽泥棒の自白』)、グリーグの《ペール・ギュント》第1組曲より第1曲〈朝〉(『青年期、空き巣』)、サティの《ジムノペディ》第1番(『朱夏期、音楽泥棒』)などのクラシック作品が引用されている。

小説のストーリー性を反映した標題曲『盗作』

音楽の価値は、どこにあるのか

n-bunaは楽曲に関連させ、小説も書いた。そこで音楽泥棒は、「盗み」を図った動機を独白している。

かつて空き巣として生計を立てていたその男は、幼少時代の初恋の女性(後の妻)と偶然再会。彼女の弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ《月光》を耳にし、音楽で「穴」を満たす感覚を覚え、盗人からはさっぱりと足を洗う。音楽を作るようになり、商業的にも成功するのだが、なかなか「穴」は満たされない。妻も亡くなる。男は「自己破壊」に向かい、音楽の盗作を繰り返す——

初回限定版に特典としてついている小説。
「俺は泥棒である」という衝撃的な一言で始まる。

楽曲と物語を通して迫ってくるのは、「芸術の価値はどこにあるのか」という問いだ。

彼は「国際祭典」のメインテーマの作曲を依頼されるほどに、名を得た。しかし、その実は「著作権の切れた古典から、街に溢れるポップスから、往年の名曲まで、街に溢れる様々な音楽、鼻歌、演奏をレコーダーに録音し、ずる賢く、周到に組み替えて、時にはそのまま引用して組み上げ」ている盗人だ。

しかし彼はこう言う。

バッハの時代で作曲は終わっていると何処ぞの人間が嘯いたそうだが、その通りだとすら思う。

今この瞬間も、世界中の人間が音楽をしているのだ。たった十二音階のメロディが数オクターブの中でパターン化され、今この瞬間にもメロディとして生み出され続けている。

また音楽泥棒は、ルネサンス期に実在した音楽家、カルロ・ジェズアルド(1566-1613)を例に挙げ、創作者と作品の関係性についてこう語る。

彼は不貞を犯した妻とその愛人を殺した。創作活動に明け暮れ、後世に残る曲を生み出し続けたのはその後だった。彼の作品の幾つかには、明らかに罪の意識が滲んだものがある。人を殺した罪の苦しみから生まれた作品群。

さて、罪は誰が持っていると思う?

彼か?彼の音楽か?

罪の保持者はジェズアルドだ。作品が人を殺した訳じゃない。人を殺した後に作った作品でも、作者の罪が受け継がれることなどない。

(中略)

それをわかっていない連中が余りにも多い。

作品と本人を同一視している。そこに作者の罪を持ち込む。こんなことをした人間だから、という理由で評価を曲げて見てしまう。

創作者の意図や方法、背景にかかわらず、「作品にのみ価値は宿る」という考え方を示すとともに、私たちに音楽の聴き方を改めて問うてくる。
近年不祥事やゴシップによってお蔵入りになる作品が増えているわけだが、私たちは、一体作品の何に触れているのか。

ともかく、こうして音楽泥棒は美しいコラージュを作り続ける。しかし、常に欠乏感が絶えない彼にとって、それだけでは物足りない。最終的に、音楽泥棒は自ら週刊誌のライターに「俺は泥棒である」と告白し、商業的・作品的な評価をすべて無下にする「破壊行動」で結末を迎える。ここでやっと、彼にとっての唯一無二の作品が完成したわけだ。

音楽泥棒の持つ音楽観は、本作の書き手n-bunaによるものだろう。
彼は、自らを「芸術至上主義者」だと過去のインタビューで語っている。作品がどのように作られたのか、そこにどのような物語を含んでいるのか。それはただの情報に過ぎず、音楽の価値を左右するものではない、と。

それに加え、「『盗作』を発表することで、ヨルシカへのイメージを壊したいと思った」とすら語っている(参照:https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/tousaku/

クラシック音楽にも存在する「盗作」と「破壊」

それならば、n-buna自身も本作で「盗作」しているのではないか? と気になるところだが、彼はそれについてあえて明かしていない。とはいえ、n-bunaは本作に限らず、文学作品の引用・オマージュを行ってきた張本人ではあるのだが。

しかし、作品主義の彼にとってそんな議論は不毛だ。唯一わかりやすく引用しているクラシック作品についても、「サービス」と述べているくらいだ。

ところが、ここにクラシック作品が確かに存在することで、奇しくもクラシック音楽における「盗作」や「芸術の価値」まで問われているような気を覚える。
影響、引用、オマージュ、盗用。この区切りは非常に曖昧だ。しかし、これらをすべて大きく引っくるめて「盗作」とするならば、クラシック音楽も盗作なしには発展し得なかった。

例えば、グリーグ。故郷の民族音楽に影響を受け、自作として昇華させている。ベートーヴェンも、自作にハイドンやバッハの旋律を借用している。これらは音楽泥棒のいう「盗作」にあたるのか。
そして音楽泥棒が破壊に美しさを感じたように、クラシック作曲家にもその役割を担った者がいる。「音楽は耳を澄まして聴く芸術」という美学を壊そうとしたサティも、その一人だ。

そうして現代ではすっかり古典となった作品たちが、ヨルシカの新しい表現方法における盗用対象となっている。コラージュの一部にされた《月光》や、ビートの強いポップスサウンドになった《朝》や《ジムノペディ》を聴いて、どう思うか。「盗作だ」と罵る者はいるだろうか。

こうした問いかけをすることすら、「沸き起こる議論や反応を見ることこそが作品の本質」と話したヨルシカの目論見通りなのかもしれない。

ベートーヴェン、グリーグ、サティの作品が引用された作品たち

桒田萌
桒田萌 ライター

1997年大阪生まれ。夕陽丘高校音楽科ピアノ専攻、京都市立芸術大学音楽学専攻を卒業。音楽をはじめとする、幅広いジャンルで取材・執筆を行う。『まいどなニュース』『デイリ...

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