井上道義、店村眞積が語る師・斎藤秀雄への複雑な想い
斎藤秀雄の没後50年を記念した全3回の短期連載。第2回となる今回は、指揮者・井上道義、ヴィオラ奏者・店村眞積、門下生のお二人に師・斎藤秀雄との思い出を語っていただいたインタビューから、新刊書籍『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』に収まりきらなかったお話を著者・中丸美繪(よしえ)がご紹介する。
慶應義塾大学文学部卒業。日本航空に5 年ほど勤務し、東宝演劇部戯曲研究科を経て、1997年『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(新潮社)で第45 回日本エッセイス...
小澤、井上の心をくすぐった「オーケストラの指揮」
第1回は、斎藤秀雄小伝を紹介したが、第2回では門下の指揮者井上道義と、日本ヴィオラ界の第一人者、店村眞積(たなむら まづみ)の話である。
斎藤秀雄没後50年にあたる今年(2024年)は、門下に限っても音楽界ではビッグイベントが続く。
井上道義は2024年いっぱいで引退を宣言、9月21日からは、最後のオペラとして《ラ・ボエーム》を全国8か所で指揮している。
演出家森山開次との打ち合わせに追われる多忙な中、自宅を訪ねた。手土産は井上が好物というお萩である。それを口に運びながら恩師の話が始まった。
「先生にもいろいろご馳走になったよ。新宿の焼肉屋とか。でも先生は育ちがいいくせに、その辺に落としたものも平気で拾って喰うんだ。オーケストラではすぐ指揮棒投げるし、そういう悪い影響も受けたよ」
斎藤秀雄の父・秀三郎は日本の英語教育の先達であり、稼ぐことを考えたことはなかった。妻・秀子は華族出身で、スケートでは秩父宮のパートナー、義兄は大山巌元帥の孫で日本ボーイスカウト連盟会長、昭和天皇御学友である。
「僕が日本でも指揮の勉強ができると思ったのは、小澤(征爾)さんの成功があったから。僕とは10歳違い」
井上は母に連れられてよく宝塚歌劇も見た。バレエとピアノを習い、伯父はN響と共演もするアマチュアの「成城合唱団」で指揮をしていた。そんな環境が井上の感性を養ったのだろう。
「先生の自宅を訪ねたのは成城学園中学2年の12月。ショパンなどを2曲弾くと、わりと簡単に『よし、わかった』と言ったんだ」
和声やソルフェージュを習ったことはあるか? 桐朋の子たちは<子供のための音楽教室>でやっているから大変だぞ! と言われ、井上は成城学園高校にそのまま進学して、1年ダブって桐朋女子高校音楽科に入り直すことになった。
「一生に比べたら1年なんて数えなくていいものだ、とね。それに、その時初めて桐朋にオーケストラがあることを知った。オーケストラを振れるぞと、そうやって先生は小澤さんの心も僕の心もくすぐったわけ」
演奏解釈の授業によって先生は永遠に尊敬される
「一緒に指揮を勉強したのは尾高(忠明)。オーケストラの教室があった3階に行くと、藤原浜雄がコンサートマスターをやってて、《弦楽セレナーデ》とか《エロイカ》とか弾いてるの。尾高と一緒に呻いたよ。俺たち、こんな立派なオケ振れないよう! って。その頃は秋山(和慶)さん、飯守(泰次郎)さん、黒岩(英臣)さん、徳丸(聡子。旧姓竹前)さんや堤俊作さん、井口基成先生の次男晃成さんらが指揮していた。
今でも大したものだと思うのは、演奏解釈の授業。それは先生が全部考え出した。そんなこと、今は誰もできない。それがあるから、先生は永遠に尊敬されている」
斎藤はフランス語、ドイツ語、英語を流暢に喋り、言語と音楽の関係性を発見した。
「天才は俺のところには来なくていい、なんてことも言う。先生は<型から入れ>という人だから、『指揮法教程』を徹底的に学んだけど、僕たちに自由はない。ともかく頭から押さえつける」
井上は、所有する2冊の『指揮法教程』を見せてくれた。
見せてくれた『指揮法教程』は2冊。1冊は、井上の手元にあるカバーをした状態のもの、そしてもう1冊は、ボロボロになるまで使い込んだことがひと目でわかるものだった(上写真)
「僕は、桐朋の演奏会でシューベルトの交響曲第5番を、先生に教えられたことを無視して、本番で好きなように振ったことがある。終わってから、言われたよ。『お前、全然違うテンポでやってんじゃないか!』と。でも本番は俺のものだ!と思って指揮しちゃった。
先生には逆らい続けた。辞めなかったのは、オケが大学になると4つあったから。そんな学校、世界中にない! 今ならベネズエラにあるかもしれないけど」
斎藤門下では色々なタイプの指揮者が育った。同じ教程を歩みながら不思議なほどに異質な指揮者が育った。
井上はある日、斎藤からこんなことを言われた。
——お前も、小澤みたいに海外でやってこいよ。
井上は、ミラノ・スカラ座主催のグィド・カンテルリ指揮者コンクールで審査委員長のクラウディオ・アバドに見出された。リッカルド・ムーティなども輩出している名コンクールだ。井上は世界中で活躍をはじめるようになり、斎藤の訃報を聞いたのは海外で演奏会に飛び回る日々でのことだった。
ニュージーランド国立響首席客演指揮者、新日本フィル音楽監督、京響音楽監督兼常任指揮者、大阪フィル首席指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を歴任し、斬新な企画と豊かな音楽性で一時代を切り開いた。2023年1月「井上道義:A Way from Surrender ~降福からの道~」を総監督として率い唯一無二の舞台を作り上げる。2023年「第54回サントリー音楽賞」を受賞。2024年12月30日に指揮活動を引退する。
11月9日オーケストラ・アンサンブル金沢 第487回定期公演マイスター・シリーズ(石川県立音楽堂コンサートホール)ほか残す公演はあとわずか
ヴァイオリニスト志望なのに「ヴィオラになれ、なれ!」
斎藤は弟子たちに専門とする楽器を変えさせることもしばしばだった。新刊『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』には詳細を書いたが、桐朋一期生ピアノ科の女性たちが、斎藤のどういう言葉で運命を変えられたのか……ぜひご一読いただきたい。
同様に、斎藤の最晩年にも専門を変えられた生徒がいる。斎藤の桐朋オーケストラで最後のインスペクターを任された店村眞積である。
店村は斎藤逝去後の1976年、イタリアへヴィオラで留学し、指揮者ムーティに認められ、フィレンツェ市立歌劇場首席ヴィオラ奏者となった。1977年にはジュネーヴ国際音楽コンクールヴィオラ部門第2位となり、以後ヨーロッパを中心に室内楽などでも活躍、帰国後は読売日本交響楽団、NHK交響楽団、京都市交響楽団などでソロ首席ヴィオラ奏者を歴任、小澤征爾の信頼も篤く、サイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団のメンバーでもある。
しかし、桐朋学園時代、斎藤にヴィオラを勧められた時には、素直に受け入れることができなかった。
そもそも6歳から習っていたのはヴァイオリンであり、全日本学生コンクールでも入賞し、ヴァイオリニストの道を進むはずだった。桐朋学園大学に入学して初めて経験したのがオーケストラである。
「桐朋ではヴィオラ専攻はいないから、オーケストラではヴァイオリンの子がヴィオラを弾いたりするわけ」
店村はA、B、Cとあるオーケストラの全部に参加するように言われ、ヴァイオリンもヴィオラも弾き、3つのオケでインスペクターというまとめ役となり、斎藤と接することが多くなった。
「斎藤先生は、僕の顔を見ると、まともな演奏をしてくれよ、と言って、ヴァイオリンをやめさせようというのか、ヴィオラになれ、なれ! と言い続けた。会いたくなかったねえ。21、2歳の時には日本音楽コンクールを受けたけど、自分で狙ったところに届かず、気持ちも荒れていたところに、ヴィオラになれ、でしょう。
初めてヴィオラを弾かされた時、なんて面白くないんだって思った。音楽が自然に進んでいくところをヴィオラは逆にいくのでね」
演奏家の資質を見抜く力
店村がインスペクターとして付き添った斎藤の最期の夏合宿については、本書に詳しいが、痩せた斎藤の足をマッサージしたのは店村である。
斎藤は、店村の性格、テクニックと音楽性などすべてを総合的に判断して、ヴィオラを勧めたとしか思えない。
「斎藤先生に言われて、ヴィオラになった先輩たちはたくさんいた。今井信子、大山平一郎、川崎雅夫……。ヴィオラって燻し銀的なものなんだよね。面白い楽器なのよ。性格的にはマニアックな人向き。というのも、ヴィオラは大きさを自分で選ぶことができる。僕の場合は35.4から35.6 センチ。36センチになると大きすぎる。38センチもある。昔の楽器(ヴィオラ・テノーレ)には47センチのものまである。そうなると体積が違ってくるから、当然テクニックも音色も変わってくる。自分ですべてを作ることができる楽器なんだよね。でも最初は嫌で嫌でたまらなかったよ」
店村は弓の毛替えも自分でする。毛を弓にとめるのに楔(くさび)をつくるのだが、それを切るのに刃物が必要で、となるとそれを研ぐ砥石にまでいってしまう。
「京都に2億年前の地層があって、そこから出る砥石が高価なのよ。僕も天然の砥石を抱いて寝てますよ」
「高音やメロディーが好きな人や、低音は波長が合わない人は向かない。ヴィオラは奥深い楽器だけど、何と言っても斎藤先生にまず教えられたのは、オーケストラの社会性。遅刻・欠席はオーケストラでは決して許されないこと。新人はよく見られていると思わないとね。今やオーケストラのオーディションには7、80人も集まり、オーケストラに入ることも厳しい時代となりました」
店村は、今年2月、2011年に就任した東京都交響楽団のヴィオラ特任首席としてのラストステージを迎え名誉首席ヴィオラ奏者となった。桐五重奏団は結成半世紀を迎えてなお、演奏活動を続けている。小澤に託されたサイトウ・キネン・オーケストラ財団の代表理事であり、店村が今後どういう活動を展開していくか目が離せない。
6歳よりヴァイオリンを始め、江藤俊哉等に師事。桐朋音大を経て、1976 年イタリア に渡り、ファルッリに師事。その後、指揮者ムーティに認められ、フィレンツェ市立 歌劇場首席ヴィオラ奏者となる。77年ジュネーヴ国際コンクールヴィオラ部門第 2 位。帰国後は、主要オケのソロ首席を歴任。ソリスト、室内楽奏者としても活躍すると共に、サイトウ・キネン・オーケストラ、水戸室内管の主要メンバー。CD録音も多数。現在、東京音大客員教授、東京都響名誉首席ヴィオラ奏者
次回は、斎藤の「正統な継承者」とされる指揮者秋山和慶のインタビュー、そして9月18日の命日に行なわれた「齋藤秀雄先生没後50年メモリアル・コンサート」の様子と主催した桐朋学園大学学長の辰巳明子のコメントなどを紹介したい。
『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』
中丸美繪著
没後50年を経て明かされた事実、死の間際に吐露した想い……。
日本のクラシック音楽界を世界レベルに引き上げた稀代の教育家、斎藤秀雄(1902-74)。1948年、吉田秀和、井口基成、柴田南雄らと「子供のための音楽教室」を設立(桐朋学園音楽部門開設に繋がる)。鬼教師と恐れられながらも小澤征爾をはじめとする世界的名演奏家を数多く輩出し、その教え子たちがサイトウ・キネン・オーケストラを結成。また、『指揮法教程』を著し、指揮の動きをメソッド化するという世界でも稀な偉業も成し遂げたレジェンドである。
本書は、そんな斎藤秀雄の生き様を追って約130名に及ぶ関係者に話を聞き、日本エッセイスト・クラブ賞とミュージック・ペンクラブ賞を受賞した評伝『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(1996年)をもとに、新規取材を行い大幅加筆・再構成した新著。常に理想を追求し、執念にも近い情熱をもって音楽教育に力を注いだ氏の生き様を見事に描写した決定版!!
<電子書籍> 中丸美繪 著
上記書籍は『嬉遊曲、鳴りやまず——斎藤秀雄の生涯』をもとに大幅加筆・再構成したものだが、生い立ちから演奏家として活動した時期までの前半(第3章まで)は割愛部分が多かったため、オリジナル版を電子書籍でお読みいただけるようにした。
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