浜松国際ピアノコンクール優勝からの葛藤の1年を経て

「知」を総動員して自由に表現するピアニスト、ジャン・チャクムル——Shigeru Kawaiを語る

インタビュー
2019.11.22

2018年の浜松国際ピアノコンクール優勝から1年。期待を一身に背負い、多忙な日々を送るジャン・チャクムルさん。
どんな1年だったのか、コンクールでなぜカワイの最高峰Shigeru Kawai EXを選んだのか、現代社会に生きる音楽家としてどんなふうに歩んでいきたいか、などなど、コンクールで密着取材していた高坂はる香さんがインタビュー!

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通訳:久野理恵子
写真:各務あゆみ
取材・文
高坂はる香 音楽ライター
高坂はる香
取材・文
高坂はる香 音楽ライター
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動...

ステージで常に冷静でいることは簡単ではありませんでした

第10回浜松国際ピアノコンクールの頂点に輝いた、ジャン・チャクムルさん。聴く者を惹きつける、喜びにあふれた音楽性が愛され、優勝を機に人気が急上昇。生活が一変し、演奏活動で多忙な毎日を送るようになったという。

2018年に行なわれた第10回浜松国際ピアノコンクール ファイナルでの演奏

ピアニストにとって、コンクールでの優勝はキャリアのスタート地点にすぎず、そこから先が本当の勝負だとはよくいわれること。チャクムルさんも、この1年はすばらしいものだったが、同時に多くの葛藤も感じていたと率直な気持ちを語る。

「これまでのコンクールは、“演奏できて楽しかった!”……で終わることができましたが、今回はそうはいきませんでした。浜松コンクール後は、どの演奏会でも優勝者という肩書きがついてまわり、一体どんな演奏をするのか評価しよう、というスタンスで聴きにくる方もたくさんいる。そんな中、ステージで常に冷静でいることは簡単ではありませんでした」

美を通して人々を幸せにすることが大切

自身で参加を決めたとはいえ、優勝は審査員の判断で訪れるもの。その結果を受け止める準備が100%完璧にできている若者は、そういないのではないかと話す。

「バルトークのオペラ《青ひげ公の城》では、青ひげ公から愛の証として宝石をちりばめた外套を与えられた妻が、その重みから、まるで囚われた人間のような感覚を抱きます。

コンクールで優勝することにも、少し似たところがあるのではないでしょうか。自分のため、家族のためにピアノを弾くことに始まり、やがて外に出て、徐々に多くの人のために演奏する機会が増えていく。それが優勝した途端、肩書きを背負って何千人もの前で演奏することになるのです。

外套を着せられた青ひげ公の妻は、その重みに耐えられませんでしたが、私たちはこのプレッシャーを糧に成長しなくてはいけません。そもそも、音楽という最高の美を届けなくてはならないという意味で、演奏家の責任は重いものです。

葛藤を味わうことは決して無駄ではありませんでした。音楽を聴きにくるみなさんは、美しいものでその時間を満たすために会場に足を運んでいる。美を通して人々を幸せにすることこそが大切だという考えに立ち戻ることができました」

ジャン・チャクムル Can Cakmur
1997年トルコ・アンカラ生まれ。2017年スコットランド国際ピアノコンクール、2018年第10回浜松国際ピアノコンクールで第1位。2012年、アンカラの高校を卒業後、パリ・スコラ・カントルムにてマルセラ・クルデリに師事し、2014年首席で卒業。現在ワイマール音楽大学にてグルツマン教授の指導のもと研鑽を積んでいる。

練習とは、作品に自ら語ってもらうためにすること

1997年、トルコ生まれのチャクムルさん。両親は音楽をこよなく愛する人たちで、彼が2、3歳の頃からオーケストラの演奏会に連れて出かけたという。現在ワイマールの音楽大学で学ぶが、留学以前は音楽学校に通うことなく、個人的に師事した先生方のもと、のびのびと音楽性を育んだ。

豊富な知識を持ち、文章を書くことにも長ける彼だが、知識に縛られているようなところはない。いつもその場で生まれたかのような音楽を披露してくれる。事前に練り上げた構想と本番中のインスピレーションのバランスは、どう保っているのだろうか。

「そもそも、あらかじめ演奏を組み立てるということはしません。僕にとって練習とは、感情表現を重ね、作品に自ら語ってもらうためにすることです。その結果、例えばシューベルトの『セレナーデ』ならば“静寂”というイメージを得る。あとは即興的な感覚やひらめきを大切にし、そのイメージを脱しない範囲のテンポやルバートで演奏をしていくのです」

取材は11月にカワイ表参道で行なわれた。

カワイ独自の哲学に好感をもっていました

そんなひらめきを得る上での大切なパートナーとなるのが、ピアノだ。

多くのコンクールで参加者は、複数のメーカーから自分が弾くピアノを選んで本番に臨む。浜松コンクールでチャクムルさんが相棒に選んだのは、Shigeru Kawai EX。どんなところが気に入ったのだろうか。

「もともとピアノづくりに興味があって、メーカーごとの楽器づくりの哲学や素材について調べることが好きなんです。

それまでShigeru Kawai のフルコンサートグランドを弾いたことはありませんでしたが、ピアノづくりにおける独自の哲学に好感をもっていました。

実際に弾くと、指のコントロールに対して自然な反応があり、さらにペダルも非常に繊細な陰影をつけることができるもので、想像通りのすばらしさでした。

今、多くのピアノメーカーは、より安定し、純度が高く、画一的な音を求める傾向にあると思います。そんな中、Shigeru Kawaiには各音域ごとの個性があり、音色に透明感がありながら、弾き手のキャラクターもしっかり現れます。

僕はフォルテピアノが好きなのですが、それに近いものを感じますね。オールラウンドなピアノというより、作品によってすばらしい相性を発揮する楽器です」

職人が一本一本丁寧にに銅線を手巻きしている低音部の弦など、音域によって音質や音色に個性があるという。また、「現代は2000人全員に聴こえる音に目が向きがちだけれど、カワイはintimateな(親しみを感じさせてくれるような)弱音が出る」と語る。
アクションには、剛性の高いカーボンファイバー入り樹脂素材を使用。
鍵盤の奥を弾いた場合でも、十分なストロークでの演奏ができる鍵盤長。

Shigeru Kawaiは透明感が求められる作品によく合う

では、チャクムルさんがShigeru Kawaiで弾きたくなるレパートリーとは?

「興味深いことに、新旧のバージョンごとに合うものが少し変わってきます。古いタイプはカンタービレな音を持っているので、1860年代以降の作品が合うと思います。そして僕が特に気に入っているのは新しいタイプ。透明感が求められる作品によく合い、スカルラッティやバッハに最適です。またモーツァルトなどの古典派、ショパン、そしてリストなら初期の作品に合うと思います」

とはいえ、一度の演奏会で幅広いレパートリーを演奏することもある。そんなとき、それぞれの作品に合った音を引き出すためのテクニックはあるのだろうか。

「ピアノが自然と教えてくれます。こうして弾けば変化するよと、話しかけてくれる。その声に耳を傾けていれば、一つの演奏会でモーツァルトからブラームスまで弾くことができます」

調律師もまた大切な存在だ。楽器の構造に精通しているピアニストは、細かいリクエストをすることが多いと聞くが、チャクムルさんの場合はどうなのだろうか。

「確かに僕は楽器の構造を意識してピアノに触れるほうですが、リクエストは多くありません。僕は、調律師は音楽家だと思っているので、逆に意見を聞くことが多いですね。ある空間でそのピアノがどう響くか、彼らのほうがピアニストよりもよくわかっていますから」

調律師には、ほんの1mmダンパーをずらしてほしいなど、ペダルについての注文をすることがあるそう。
バルトークの「戸外にて」4楽章を録音したとき、一番左のソフトペダルを押さえたまま、真ん中のソステヌートペダルとダンパーペダルを踏んで弾いたそう。本番ではできないことだけれど、一度やってみたかったとのこと。音を濁らせずに、右手で弾く音の響きを豊かにする狙いのようだ。

Shigeru Kawaiを弾いたチャクムルさんの最新アルバム(2019年1月アクトシティ浜松 中ホールにて)

クラシック音楽がもつ姿勢や意義を大切にしていきたい

チャクムルさんが作品について語る言葉を聞くと、作曲家と社会の関係性を強く意識していることがわかる。

例えば、あるときは「モーツァルトの晩年の作品が、突然、悲しみ、怒り、深いメランコリーに陥るのは、モーツァルトが当時の社会状況において、これは自分の望んでいた人生ではないと感じていたからではないか」と話していた。知性と想像力をもって作品を読み解いてゆくピアニストなのだ。

それでは彼自身は、現代の社会において、音楽家として何を目的に歩んでいきたいのだろうか。

「大変な質問ですが……それには二つの答えを挙げたいと思います。

一つは、このクラシック音楽という過去の芸術を、感謝の気持ちをもって正しく評価していくこと。クラシック音楽は、古くから人々が時間をかけて楽しみ、美的感性を築いてきたものです。利便性や利益を目的としたものではありません。この、時間をかけて感じ、考え、スローライフを生きるという16世紀以来の芸術がもつ姿勢を受け継いでいきたいです。

もう一つは、クラシック音楽の知的な意義を大切にしていきたいということ。音楽は、私たちに過去を思い起こさせてくれます。

例えば、ベートーヴェンの《第九》は人類愛に寄せるメッセージを持ち、日本では年末に取り上げられますが、皮肉にも、ヒトラーの誕生日に演奏された過去も持ち合わせています。私たちは歴史と縁を切ることはできません。歴史を忘れるのは恐ろしいことです。最近ドイツでは、一部の地域で約25%もの人がネオナチ寄りの政党に投票する事態が起きました。これは紛れもなく、人間が歴史を忘れた結果です。

音楽は我々に歴史を思い出させ、さまざまな感情を呼び起こし、人生を豊かにしてくれるものです。人がただ生まれ、食べ、死んでいくというだけではない、生きる意義を見出させる。これこそが芸術です。自分はそんな音楽に携わる者だという意識を持ち続けていきたいです」

朗らかな雰囲気をまとった人だが、その奥にこれほどの責任感を抱いていると知ると、冒頭で語られた葛藤の大きさも理解できる。これからも、音楽を通じてさまざまな山を乗り越え、見出した美しいものを私たちと共有してくれるのだろう。

誕生から20周年を迎えたShigeru Kawaiの哲学やヒストリー、構造、素材などを紹介した動画

2018年の第10回浜松国際ピアノコンクールにおけるカワイのフルコンサートピアノ「SK-EX」の紹介動画

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