100年前に初演された音楽のプレイリスト

1918年を聴く ー第1次世界大戦と音楽ー

プレイリスト
2018.05.02

ドビュッシー没後100年、バーンスタイン生誕100年と大物作曲家2人のアニヴァーサリーイヤーで盛り上がっている音楽界ですが、第1次世界大戦の終末期である100年前の音楽界では、どんな「音」を人々は聴いていたのでしょうか? 1918年に初演された音楽を集めたプレイリストで、あなたも100年前に音のタイムトリップをしてみませんか?

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写真上
第1次世界大戦中、パリの凱旋門付近で撮影されたイギリスの音楽隊。
川上哲朗 ONTOMO編集者
川上哲朗
川上哲朗 ONTOMO編集者
東京生まれの宇都宮育ち。高校卒業後、渡仏。リュエイル=マルメゾン音楽院にてフルートを学ぶ。帰国後はクラシックだけでは無くジャズなど即興も含めた演奏活動や講師活動を行う...

ドビュッシーとバーンスタインの「100年」に沸いている音楽界ですが、病床にあったドビュッシーは最後の年に完成曲をひとつも残していませんし、バーンスタインは当時0歳ですからもちろん曲は書いていません。

このプレイリストでは1918年に初演されて、当時の人々が聴いていたであろう曲を集めてみました。ほとんどの楽曲の解説に第1次世界大戦に関する記述がありますが、この年の11月まで続いた戦争の暗い影が作曲家たちに与えた影響は少なくありません。多くの人々が戦争に翻弄され命や家族を奪われた時代、作曲家たちも苦難の中で芸術を想っていたのです。

ホルスト:《惑星》~
1. 火星 ― 戦争をもたらす者
2. 木星 ― 快楽をもたらす者

正式な初演は1920年にバーミンガムで行われましたが、それに先駆けて非公式の全曲初演が1918年の9月29日におこなわれています。

「火星」は5拍子という不安定な変拍子を使うことによって、ヨーロッパ全体を覆う第1次世界大戦の不安と焦燥の空気を伝える曲。平原綾香さんのヒット曲「jupiter」でも有名になった「木星」の旋律にはホルスト自身が編曲し、1918年にセシル・スプリング=ライス作詞の「我は汝に誓う、我が祖国よ」(I vow to thee, my country)というイギリスの愛国歌にもなっています。それぞれの惑星のあとについている副題は、ホルストが傾倒していた占星術によって名づけられています。

ストラヴィンスキー:《兵士の物語》
3. 兵士の行進
4. タンゴ – 5. ワルツ – 6. ラグタイム – 7. 悪魔の踊り

1918年、戦争の影響で世界は経済的に疲弊していました。各劇場でも大規模なオペラやバレエなどの上演は難しくなり、ストラヴィンスキーは1917年のロシア革命で自身の財産の大半を失いました。《兵士の物語》は大掛かりなオーケストラや、舞台演出を避けるために、7人の演奏者と3人の役者で上演できるように作られました。
ジャズやタンゴなど、当時アメリカからヨーロッパに進出してきた新しい音楽の要素をふんだんに取り入れて、悪魔に翻弄される1人のロシア人兵士を描いています。
9月28日の初演の後、なんとか儲けを出そうとツアーを計画するストラヴィンスキーでしたが、それも戦争末期の混乱と、1918年のスペインかぜ(現在のインフルエンザ)の大流行で失敗に終わりました。

プロコフィエフ:《束の間の幻影》op.22
8. コン・ヴィヴァチタ (活発さをもって)
9. リディコロサメンテ(馬鹿馬鹿しく)
10. ドレンテ(悲痛に)
11. コン・エレガンツァ(優雅さをもって)
12. モルト・ジョコーザ(喜ばしく)

1918年当時、世界初演と日本初演が同年におこなわれるのは大変珍しいことでしたが、その例が《束の間の幻影》です。
1918年4月15日にこの曲を自らのピアノで初演、4月21日に初めての交響曲の初演を済ませるとプロコフィエフはアメリカへの亡命を決意、5月7日にシベリア鉄道に乗りアメリカ行きの船がでる日本へ向かいますが、南米行きの船が出港したばかりだったため、プロコフィエフは1918年の夏の2か月間を日本で過ごしています。《束の間の幻影》は自作のソナタなどと一緒に7月7日の午後、帝国劇場でのピアノ・リサイタルで日本初演されました。まるで暗い現実から逃避するような、詩集のように短く、儚い世界観を持った若きプロコフィエフの野心作。
今回のプレイリストにある録音はプロコフィエフ自身のピアノによる自作自演です。

プッチーニ:「三部作」
13. 《外套》 ~ 「捕まえたぞ!― ミケーレ!ミケーレ!」
14. 《修道女アンジェリカ》 ~ 「母もなく」
15. 《ジャンニ・スキッキ》 ~ 「私のお父さん」

戦争による世界的な経済疲弊でヨーロッパの劇場が大規模作品の上演を断念する中、当時人気絶頂のプッチーニが書いた渾身の大作「三部作」の初演を引き受けたのは、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でした。12月14日の初演時には第1次世界大戦は終結こそしていましたが、航路の安全が確保できずプッチーニのアメリカ行きは断念されました。
不貞の妻の愛人を、妻の目の前で殺してしまう血なまぐさい事件を描いた《外套》、わが子の死を知り、キリスト教では大罪とされる自殺を図る《修道女アンジェリカ》、大富豪の訃報を受けて集まった親戚たちが、莫大な遺産を巡りドタバタを繰り広げる喜劇《ジャンニ・スキッキ》。3つの題材はそれぞれ全く違う世界観を持ちながら、根底にある「死」というテーマはやはり、戦争が関係していないとは言い切れないでしょう。

16. ガーシュウィン:ザ・リアル・アメリカン・フォークソング(イズ・ア・ラグ)

アメリカでは1910年代、ヨーロッパの輸入物であるオペラと同時進行で、自国の文化である「ミュージカル」が成長を遂げはじめています。

この曲の邦題は「ラグこそが本当のアメリカ民謡」とでも訳しておきましょうか。さまざまな作曲家の曲を集めたミュージカル「レディーズ・ファースト」のなかの1曲。ガーシュウィンがなんと19歳のときに書かれ、ブロードウェイのデビュー作でもあります。歌詞は兄のアイラ・ガーシュウィンが担当し、初レコーディングはジャズ・シンガーのエラ・フィッツジェラルドがおこないました。1918年10月14日、ブロードハースト劇場から、ブロードウェイの帝王ジョージ・ガーシュウィンの躍進劇は始まったのです。

17. リリ・ブーランジェ:《ピエ・イエズス》

1918年3月15日、ドビュッシーが亡くなる10日前に、1人のフランス人女性作曲家が息を引き取りました。本名、マリ=ジュリエット・オルガ・リリ・ブーランジェ、享年24歳。女性として初めてローマ賞(過去にはベルリオーズ、ビゼー、ドビュッシーらが受賞したフランスで最も名誉ある作曲賞)を勝ち取り、天才の名をほしいままにしました。しかし、生まれつき体が弱く、戦争への従事活動によって腸結核が悪化し、その短い生涯を終えました。リリの姉、ナディア・ブーランジェも作曲家として将来を嘱望されていましたが、妹の死に際し妹の才能は超えられないと作曲の筆を折り、教育者の道に専念しました。(ナディアは後に若きバーンスタインも教えています。)
《ピエ・イエズ》は死の床にあって、もはやペンを持つこともままならなかったのでしょう、リリが口伝えたものを姉たちが書きとめたといいます。この曲の初演は作曲者自身の葬儀に際しておこなわれました。不思議で静謐な祈りの音楽です。

リリ・ブーランジェ(右)と姉のナディア・ブーランジェ(1913年)

ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱付き」 第4楽章
18. プレスト – アレグロ・アッサイ ― 19. 「おお友よ、このような声ではない!」

1918年6月1日、今や日本の年末の風物詩である「第九」が、徳島県板東町(現在の鳴門市)にあった「板東俘虜収容所」に収監されていたドイツ人捕虜たちによって演奏されました。このときの演奏が、日本で初めて演奏された、つまり「第九」の日本初演だそうです。今でも徳島県鳴門市は「第九のふるさと」としてイベントをおこなっています。それにしても、戦争で捕虜になった人々が、隣人への愛と生きる歓びを謳った「歓喜に寄す」を歌ったというのは、とても象徴的な出来事に思えてなりません。
ちなみに「第九」の初演は1824年の5月7日にウィーンのケルントナートーア劇場でおこなわれましたが、“日本人”のオーケストラと合唱が初めて「第九」を演奏したのは大正13年11月29日。西暦になおせば1924年、初演からちょうど100年後になります。

文化が花開いていた大正時代の日本。大いに西洋音楽文化も楽しんでいました。戦争に勝利した1918年、そんな文化的な日々は次の戦争が始まるまでもうすこし続きます。

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