「親指小僧」~ラヴェルが《マ・メール・ロワ》で描かなかった本当は怖い結末
飯尾洋一さんが毎回一作のおとぎ話/童話を取り上げて、それに書かれた音楽作品を紹介する連載。第2回はシャルル・ペローの「親指小僧」、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが《マ・メール・ロワ》で取り上げています。そもそも日本では別作品である「一寸法師」と意訳されるほど馴染みのない物語の内容と、ラヴェルも描かなかった血生臭い結末を紹介してくれました。
音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...
聴く人もいっしょに迷子になるようなラヴェルの名作
おとぎ話を題材とした名曲の筆頭に挙げられるのが、ラヴェルの《マ・メール・ロワ》(フランス語でマザー・グースの意)。「眠れる森の美女」「親指小僧」「美女と野獣」などの物語がとりあげられている。ピアノ連弾でも、オーケストラでも演奏される名曲だ。
第2曲(バレエ版では第4場)は「親指小僧」。あるいは「一寸法師」と訳されることもある。「いやいや、ラヴェルは日本の『一寸法師』は知らんでしょう」とも思うが、たぶん、だれかが「親指小僧」では日本人にはピンと来ないと思って「一寸法師」と訳してくれたのだろう。尺貫法における一寸は親指の幅に由来するそうなので、なるほど、この訳は妙案かもしれない。
ただし、ラヴェルの音楽はシャルル・ペローの童話「親指小僧」の具体的な場面を表現しているので、これを「一寸法師」だと思って聴いてしまうと、筋が通らなくなる。この曲に登場するのは、森のなかで道に迷う7人兄弟の子どもたち。末っ子が親指小僧だ。
親指小僧は生まれたときに親指ほどのサイズしかなかったので、こう呼ばれている。体も弱く、言葉を覚えるのも遅く、兄弟間ではいじめの的になっていたが、実はいちばん賢い。
兄弟がなぜ森で迷っているかといえば、両親に捨てられたから。一家はあまりに貧しく、このままでは飢えてしまうので、泣く泣く子どもたちを森に置き去りにしたのである。
一度目は親指小僧が機転を利かして、森までの道の途中に目印として小石を落としたので、全員が家に帰ることができた。だが、二度目はそうはいかなかった。親指小僧は小石を拾えなかったため、昼食用に持たされていたパンをちぎって、パンくずを落とした。ところがパンくずを小鳥たちが食べてしまったのだ。
食い扶持減らしに捨てられるところも、パンくずを落とすのも「ヘンゼルとグレーテル」とそっくりの展開だ(ちなみにウェブサイト内の現在位置を示すいわゆる「パンくずリスト」は、「ヘンゼルとグレーテル」のパンくずに由来する)。
ラヴェルの「親指小僧」は冒頭からどこへ向かっているのかわからないような曲想で開始される。聴く人もいっしょに迷子になるような心細さを味わえるのがよい。なかほどで小鳥のさえずりが聞こえてくる。オーケストラ版で小鳥を演じるのはヴァイオリンとフルートだ。こいつらがパンくずを食べてしまったばかりに、オレたちは家に帰れなくなってしまったのか…….。そんなふうに親指小僧に共感しながら聴くと、軽やかな小鳥たちが急に憎たらしく思えてくる。
ラヴェル《マ・メール・ロワ》オーケストラ版〜「親指小僧」
ラヴェルが描かなかった親指小僧たちのその後......
ラヴェルの曲はこの場面だけで完結している。では、兄弟たちはこの後、どうなったのかといえば、人喰い鬼につかまるのである。
鬼は兄弟たちを明日になったら食おうと考えて、いったん寝かせる。鬼にはちょうど7人の娘がいた。親指小僧は夜中に起きて、娘たちの金の冠と自分たちの帽子をとりかえる。狙い通り、鬼は兄弟たちと勘違いして、自分の娘たちを包丁で切り刻んでしまう。ずいぶんとえぐい展開だ。そんな血なまぐさい場面をラヴェルが音楽で描くはずがない。
そういえば、一寸法師にも鬼が出てきたではないか。親指小僧は鬼に食われずに済んだが、一寸法師は鬼にあっさり食われてしまう。食われるが、お腹のなかで針の刀をつついて暴れたところ、痛がった鬼が降参して、吐き出してくれたのだ。
オーケストラ版では無理だが、ピアノ連弾版であれば、小鳥のさえずりの部分を「針の刀をつつく一寸法師」の表現として、あえて誤解して聴くことも可能かもしれない。
ラヴェル《マ・メール・ロワ》ピアノ連弾版〜「親指小僧」
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