カウンターテナー歌手フランコ・ファジョーリがもたらす陶酔の世界
熱狂と、陶酔をもたらす、今もっとも旬なカウンターテナー歌手、フランコ・ファジョーリが2018年11月に来日!
ファジョーリの来日を心待ちにしていたという井内美香さんが、コンサートレポートとともに、歴代オペラ映像作品の中でも5本指に入ると語るカウンターテナーの饗宴オペラ《アルタセルセ》の魅力も併せて徹底解剖。
性を超えた陶酔の世界に、あなたも現実世界の「美」では満足できなくなってしまうかも?
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...
オペラ界のスーパースター、ファジョーリに震える
いつの時代にも私たちの心を震わせ、人生に光を与えてくれるアーティストがいます。
今、オペラ界でもっとも輝いているスターのひとりがカウンターテナーのフランコ・ファジョーリ。11月に初来日コンサートをおこないました。
ファジョーリの来日を待ちわびていた筆者は東京と水戸でのコンサートに行きました。どちらも満席に近い入り、つめかけたお客さんの熱気がすごかったです。東京では評論家も大勢来ており、ロビーでも客席でもみんなの期待と興奮がひしひしと感じられました。
カウンターテナーはファルセット(裏声)を使って高い音域を出す男性歌手のこと。ファルセットで高音を出すことは、もともとバロック・オペラの時代に多用されていた歌い方でした。洗練された柔らかい音色が当時の好みだったんだそうです。
ファジョーリの魅力 ―― 3オクターヴの音域、歌唱技術、そして没入する感情表現
素晴らしかったファジョーリのコンサートの様子をお伝えしましょう。
ヴェネツィア出身の古楽グループ、ヴェニス・バロック・オーケストラによる演奏のヴィヴァルディ作曲シンフォニアを聴いた後、ファジョーリが舞台に登場します。映像で見て思っていたのよりもスリムでカッコよかったです(スキンヘッドにおヒゲという欧米では一番モテるルックス)。舞台における立ち居振る舞いは、カリスマ性はあるけれどもエレガント。少し控えめなお人柄かな、という印象もありました。
ファジョーリの魅力は、まずその声の音色。カウンターテナーの声はもともと中性的な響きがあります。女性の声のようであり、男性の声でもあるような不思議な色気を湛えているのです。ファジョーリの声は輝かしく、カウンターテナーの中では男性的な要素が多い声といえるかもしれません。それは3オクターブに届く広い声域を持ち低音の響きに特徴があることからもきています。
そして歌唱技術も音楽性でもずば抜けています。でも、このすべての武器を使って何をしたいかが彼の一番の魅力だと思うのです。それはずばり、オペラの登場人物になり切ること。
コンサートでは18世紀バロック音楽の頂点に君臨した作曲家、ヘンデルが書いた数々のイタリア・オペラの中からアリアが歌われました。
しみじみとした悲しみに満ちたアリア、激した心を歌うアリアなど、それぞれの描きわけが素晴らしく鮮やかで、たくさんのオペラの舞台を観たような気分になった至高の2時間でした。
コンサートで歌ったいくつかの曲を、今回の日本ツアーに合せて発売されたファジョーリのCDからご紹介しましょう。
オペラ《ロデリンダ》よりベルタリドのアリア「あなたはどこにいるのか、愛しい人よ?」
ロンバルド王ベルタリドが九死に一生を得て故郷に帰るとそこには政敵の手によって自分の墓が作られていた。自分の置かれた状況を嘆き、王妃ロデリンダへの愛を歌う。アリアの前に自分の墓碑を読むレチタティーヴォがあり、ファジョーリの歌は一瞬にして主人公の深い悲しみの世界に連れて行ってくれる。
オペラ《リナルド》から「愛しい妻、愛しい人よ」
魔女アルチーナによって婚約者アルミレーナが空の彼方に連れ去られてしまった後、騎士リナルドが静かな、祈るような歌で悲しみを歌う。感情のこもったピアニッシモが哀切な美しさ。
オペラ《セルセ》より「恐ろしい地獄の残酷な復讐の女神が」
《セルセ》といえば、「オンブラ・マイ・フ」が有名ですが、こちらはうって変わった激しいアリア。超絶技巧の歌の聴かせどころです。わがままなペルシャの王セルセが弟の婚約者に横恋慕し、二人がすでに結婚してしまったことに激怒して歌う。ファジョーリはアリアの後半の繰り返し部分の変奏で、上は変ロ(As)から下は変二(Des)までと、3オクターブに近い音域を駆使し、セルセの常軌を逸した怒りを表現します。
コンサートではファンの熱狂に応えて何曲かアンコールが歌われました。東京のコンサートでは、予定されていたヘンデルの曲に加えて、熱心なファンがその場でリクエストしたのに応えてファジョーリがア・カペラで歌った曲があります。
それは、レオナルド・ヴィンチの《アルタセルセ》というオペラからのアリアの冒頭部分でした。実はこの曲は、ファジョーリが今のような大ブレイクとなったきっかけを作った、彼のエンブレムといってもいいオペラなのです。
ヴィンチ作曲の《アルタセルセ》は心の官能を掻き立てる、バロック・オペラの名作!
天才画家レオナルド・ダ・ヴィンチも音楽の才能があった人だそうですが、《アルタセルセ》を作曲したのはレオナルド・ヴィンチさん。別人です(笑)。
1730年にローマで初演されました。台本を書いたのはピエトロ・メタスタージオ、のちに大変に有名になった台本作家(当時は詩人と呼ばれていました)でした。この《アルタセルセ》は大ヒット作で、最初に作曲したのはヴィンチですが、その後、他の作曲家によるカバー曲(カバー・オペラ?)が今日分かっているだけでも90作を超えているほどです。
当時、ローマではキリスト教の締め付けが厳しく、女性歌手が劇場で歌うことを禁じていました。その代わりに、カストラート歌手という少年の頃に去勢されて音楽的な訓練を受けて育ったスーパー・スター歌手たちが男性の役も女性の役も主役を務めることが多かったのです。このヴィンチの《アルタセルセ》は初演の時に、女性の2役を含めた登場人物5役をすべてカストラート歌手が歌いました。
バロック・オペラは非日常を楽しむオペラ。教会の禁止があったおかげと言ってもいいのでしょうか。そこでは宝塚の裏返しのような、男性歌手ばかりが出演する舞台が人気を博していたのです。
ペルシャの王セルセ(クセルクセス)の親衛隊長の息子であるアルバーチェは父が王を暗殺したことを知り、身代わりになるため自分が犯人だと名乗り出る。アルバーチェの親友だった王子アルタセルセが王になるが、彼はアルバーチェを処刑することができない。恋人である王女マンダーネとの愛も揺らぎアルバーチェは苦悩する。
親への義務と、王への忠義の板挟みになる、というテーマが当時の貴族たちに受けて《アルタセルセ》は大ヒットしました。
めくるめくカウンターテナーの饗宴を映像や録音で!
ファジョーリがアルバーチェ役を歌う《アルタセルセ》、2013年ナンシー歌劇場の上演が映像になっています。指揮、演出、そして歌手たちが全員、この上なく素晴らしい。まさに奇跡のような上演です。
提供:ロレーヌ国立歌劇場
提供:ロレーヌ国立歌劇場
空前絶後のキャストは、スター歌手が四人も出演しています。主人公アルバーチェ役をファジョーリ、若き王子アルタセルセをカウンターテナー界のプリンス、フィリップ・ジャルスキー。そしてアルバーチェの恋人マンダーネ役を、ウィーン少年合唱団の団員だった子供時代から有名なマックス・エマニュエル・チェンチッチ。アルバーチェの妹でアルタセルセの恋人セミーラは今もっとも注目されているカウンターテナーで、2019年2月にこの上演でも演奏を担当した古楽のスペシャリスト楽団、コンチェルト・ケルンとともに来日予定のヴァレア・サバドゥスが可憐に演じています。
演出には歌手たちのメイクの様子を見せたりするメタフィクションの手法も使われています。主人公の苦しみと愛に胸を打たれながら、それは虚構の世界の美であるということを見せる優れた演出です。古楽のスペシャリストであるディエゴ・ファソリスの指揮とコンチェルト・ケルンの格調高くかつ、血の通った演奏も理想的です。
カウンターテナーが現代に蘇らせるバロックの陶酔感
18世紀ヨーロッパによくある、美しい自然の中に神殿の廃墟が描かれているような絵はお好きですか? その美意識には理想郷への憧れがありました。
オペラの世界でも人々は、生身を感じさせる男女ではなく、人工的な美をもつ主人公たちによって、心が希求する愛、気高い魂の美の世界を求めたのです。
かつてのスーパースター、カストラートとカウンターテナーはカバーする音域こそ共通していますが、存在も発声も同じではありません。
しかし、今回ご紹介したファジョーリのようなテクニックとスタイルを身に付けた魅力溢れる歌手たちによって、当時の人たちが感じていた陶酔を現代の私たちも味わうことができるのです。
(この映像に日本語字幕はありません)
ファジョーリが歌うアリアを聴いてみて!
ARTASERSE (Metastasio) (Atto 1)
Aria di Arbace
“Vo solcando un mare crudele”
Vo solcando un mar crudele,
senza vele e senza sarte;
freme l’onda, il ciel s’imbruna,
cresce il vento e manca l’arte
e il voler della fortuna
son costretto a seguitar.
Infelice, in questo stato
son da tutti abbandonato;
meco sola è l’innocenza
che mi porta a naufragar.
オペラ《アルタセルセ》(詩:メタスタージオ)第一幕より
アルバーチェのアリア
「残酷な海の水を切って私は進む」
残酷な海の水を切って私は進む
帆も無く 綱も無く
波は荒れ 空は暗い
風は強まり 助けは無い
運命の望む方向に
引かれて行くしか無いのだ
不幸なことだ 皆から捨て置かれ
このような苦境にいるとは
私にあるのは無実だけ
私を難破させた無実だけなのだ
日時: 2019年2月13日(木) 19時開演
場所: 紀尾井ホール(東京都千代田区紀尾井町6ー5)
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