レポート
2020.03.19
危機的状況でも完結させた崇高なる挑戦

延べ36万人が観た無観客・中継上演の熱き舞台裏――びわ湖ホールオペラ「リング」

3月、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールが上演予定だったワーグナーの《神々の黄昏》。5時間かかる超大作の上演とあって音楽界の話題を集めていましたが、新型コロナウイルスによる影響で一度は中止が発表されました。しかし、制作者・演奏者らの働きによって「無観客上演」の形で公演が実現、YouTubeのライブ配信も多くの人の関心を集めました。オペラ・キュレーターの井内美香さんが無観客公演の裏側に潜入レポート。館長の山中隆さん、芸術監督の沼尻竜典さんの想いもお伝えします。

取材・文
井内美香
取材・文
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

写真提供:びわ湖ホール

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公演中止から無観客、ライブ配信へ

ワーグナーが作曲した楽劇『ニーベルングの指環』(通称「リング」)という壮大なドラマの完結編《神々の黄昏》が、3月7・8日(土・日)に滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで上演されました。

びわ湖ホールのプロデュースオペラとして、全4部作を毎年一作ずつ新制作で上演してきた最後の作品です。

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びわ湖ホール プロデュースオペラ《神々の黄昏》3月8日の公演の様子。
ワーグナーの『ニーベルンクの指環』は《ラインの黄金》《ワルキューレ》《ジークフリート》《神々の黄昏》の4つのオペラからなり、すべて上演すると15時間という大作。ライン川の黄金から作られた指環を巡る壮大な物語。
提供:びわ湖ホール

演奏に約5時間半(2度の休憩を含む)もかかる《神々の黄昏》は、ワーグナーの楽劇の中でも特に長大な、上演が難しいオペラ。ヨーロッパの歌劇場などでは、このオペラをすでにレパートリーとして歌っている歌手が、ひとつの劇場で複数回歌うことが普通ですが、びわ湖ホール主催の「リング」は2組あるキャストがそれぞれ1回ずつだけ歌うという形態です。

主に日本人で構成されているキャストは、この長大なドイツ語のオペラを覚え、舞台で演技しながら、今度はいつ演じるかもわからぬ役柄を、観客の前で一度だけ歌うのです。それは単なる仕事などではなく、アーティストたちにとっての「挑戦」であることは間違いないでしょう。

YouTubeのライブ配信には延べ36万人の視聴者が

今回、びわ湖ホールは、新型コロナウイルス感染拡大防止のために、2月28日に「主催公演中止のお知らせ」を出しました。そして3月4日に、無観客公演の実施および無料ライブストリーミング配信決定と、別途録画する高画質な映像を後日DVDとして販売する、という告知を出しました。このニュースはすぐに、SNSを通してオペラ・ファンのあいだに広まったのです。

3月7、8日にYouTubeを使用して配信した公演は、両日ともに関係者の予想を大きく上回る多くの人々が視聴しました。両日ともに視聴者数は約1万2千人、通りすがりに視聴した延べ人数としては、2日間で36万人以上もの人がこの公演に触れたのです。

無観客公演は、オペラやクラシック音楽界でも広まりつつあります。観客の立場として言えば、劇場における生の舞台に接することは他に変えがたい喜びがありますが、配信される公演も、これはまた独自の楽しさがあることを今回発見しました。

・さまざまな理由で劇場に実際に足を運べない人が公演に触れられる。

・好きな格好で、好きなことをしながら気楽に鑑賞できる。

・ツイッターなどのSNSを通じて、情報や感想を共有しながら鑑賞できる。

今回の『リング』上演は、ホール側が提案したハッシュタグ「#びわ湖リング」を利用したツイッター上でのやりとりが大変盛り上がりました。

この公演自体が大変貴重な上演であったこと、そしてその中止を残念に思っていた人たちに加えて、どのような公演なのか見てみたい! と思った人が多くいたことが、これほどの大きな現象になったのだと思います。

新型コロナウイルスの脅威によって舞台芸術全般が危機に陥っている今、その問題を何らかの形で打開しようとしたびわ湖ホールの英断に、称賛の気持ちを持った人も多くいたのではないでしょうか。

マスク着用、席は離れて、拍手は禁止のオペラ上演

筆者は、7日の公演をYouTubeで鑑賞したあと、8日にびわ湖ホールにて今回の〈無観客〉上演を取材するため、劇場がある滋賀県大津駅へ。

上:大津駅から徒歩20分ほどの湖畔に立つびわ湖ホール。

左:連日の公演中止を伝えるポスター
(筆者撮影)

いつもの観客の入口ではなく、楽屋口からホールに入ります。全員マスク着用が義務付けられ、3階の観客席へ。

本日の公演を取材するにあたっての約束は、カーテンコールが完全に終わるまで拍手・歓声は一切なし、ということ。観客席には、何十人かの報道陣と、演出のミヒャエル・ハンペ氏など制作チーム。お互い距離をとって着席します。

沼尻竜典マエストロがピットに入ってきても拍手はありません。その後の公演は、多くの方が配信で鑑賞なさった通り、素晴らしいものでした。

ジークフリートのエリン・ケイヴスも良かったですが、気品があり、深い解釈で際立ったブリュンヒルデ役の池田香織を始めとする日本人キャスト。びわ湖ホール声楽アンサンブルと新国立劇場合唱団の、台詞のニュアンスに至るまで伝わる合唱。そして沼尻竜典マエストロが率いる京都市交響楽団の深みのある演奏が素晴らしかったです。

左からブリュンヒルデ役の池田香織、ジークフリート役のエリン・ケイヴス。

1万人超に見守られて完結した「びわ湖リング」

13時に始まった公演は、休憩時間を2度挟み、18時半過ぎに終演。拍手はできませんでしたが、中にはカーテンコールを繰り返す舞台に向けて自分の頭上で拍手のジェスチャーを繰り返して、何とか気持ちを届けようとする人も。カーテンコールで嬉しかったのは、オーケストラの全メンバーが舞台にあがった姿を見ることができたことです。

通常舞台の下で演奏するオーケストラ奏者も舞台にあがったカーテンコール。
提供:びわ湖ホール

新型コロナウイルスが世界に広まり、多くの文化活動が中止に追い込まれています。オペラの分野でも世界中の歌劇場が公演中止を発表しています。それに従い、多くの劇場が、過去の公演の動画配信などの試みを始めました

しかし、今回のびわ湖ホールの決断は少し違う性質のものだと思います。非常に長い準備期間を要したであろう超大作《神々の黄昏》の今回限りの上演、各キャスト一度ずつ歌うその貴重な公演をただ中止にしてしまったら、関係者が受けるダメージは深刻でしたでしょうし、楽しみにしていたオペラ・ファンの悲しみは非常に大きかったと思います。

ピンチでもファンを裏切らず、新たなファンも増やせれば

終演後、びわ湖ホールの山中隆館長と、同ホールの芸術監督でもある指揮の沼尻竜典氏による、スピーチ、および囲み取材がありました。

左からびわ湖ホールの館長山中隆さんと、同ホールの芸術監督、沼尻竜典さん。

まずは山中隆館長。穏やかでユーモアのある雰囲気ながら、劇場の状況によく目配りをしていることが言葉の端々から感じられます。

山中館長の談話

2月26日の安倍首相の自粛要請、28日の県からの公演中止の指示を受けて、県とも交渉した結果、少なくとも〈無観客〉で上演しDVDを作ることだけは実現した。DVDを作る場合、通常なら出演者の権利料が発生するが、今回はそれを支払えないことを皆が理解してくれた。

 

決定から公演日まで数日間あったので、そのあいだに感染者を出さずに実施できて、本当にほっとしている。動画配信の話はあとから、劇場のスタッフからアイディアがありトライすることに。画質や音質が鑑賞に耐えられるか心配したが、幸い多くの方から好意的な感想が寄せられた。また、ネットを通じてご寄付をしてくださる方も多く、それで(経済的マイナスの)穴を埋められるということではないが、お気持ちが本当に嬉しい。この場を借りてみなさまに感謝の気持ちをぜひお伝えしたい。

 

「リング」の再演をぜひ、というご要望には、チケットの払い戻しだけで6000万円かかり、ホールの他の公演も中止になっているという、この状態がいつまで長引くかもわからないので、次のことを考えるのは今は難しい。でも思いがけずにインターネットで配信もでき、これをきっかけに音楽、オペラに興味を持ってくれるひとが出れば嬉しい。

「マーラーの交響曲を3曲半演奏したのと同じ」長さをもつ公演を指揮したマエストロは、疲れの色もみせず、言葉の端々に素晴らしい演奏を実現した後の充実を感じさせました。

沼尻芸術監督の談話

ワーグナー「リング」はオペラ史上、最長にして最高の作品。スタッフと出演者が一丸となって取り組んでいたので、館長のご決断は大きかった。きっと大変なご決断だったと思う。これだけのものを準備してきて、お客様が、やっぱりテレビドラマをずっと観てきて、いよいよ最後がどうなるのか、というのと同じで、観られなかったら困ると思う。毎年観てくださった方、もしくは部分的に観てくださった方でも、これまで観てくださったお客様を、こういった形にせよ、裏切らないですんでよかった。

 

DVDの制作は普通、複数回収録して編集するのが普通だと思うが、今回は一発録りになった。オーケストラにとってもプレッシャーになったと思うが、やはりピットに入れば皆、音楽に没入する。そういう集中力が出ていたと思う。歌手たちにとっては、今回の装置に紗幕(演出のために舞台前面に張られた薄い幕)があったのが、お客さまがいないことを意識しにくくして良かったかもしれない。今日は、ブリュンヒルデが火に飛び込んでからの京響の音がすごかった。指揮をしていても、壁がなかったら後ろに倒れていたかも、というくらいの音圧だった。6時間、気迫がまったく衰えずにきた。それが映像を通してご覧になっていた方々にも伝わったのではないかと思う。

 

2日続けて《神々の黄昏》を上演する、というのは普通だったらありえない。ここだけ、あるいは日本だけではないだろうか。ヨーロッパだったらストが起こってしまうだろう。このプロダクションではドイツ語の素晴らしい指導者がつきっきりという贅沢な状態で、みんな上達した。びわ湖ホールの「リング」がうまくいった、ということだけでなく、日本のオペラ界としても、歌手のパワーが上がったし、オーケストラにもスタミナがついた。これだけのすごい音楽を体験できた。自分もとても勉強になった。

《神々の黄昏》でスタミナがついたのはアーティストだけではありません。この日、東京から日帰りで取材に行った筆者も、公演を聴いているうちに何ともいえない感動に全身が包まれました。新幹線に乗っての帰路も、気分の高揚が身体の疲れに勝って、元気がみなぎるのを感じました。

音楽の力は偉大です。この難しい状況が早く収束し、多くの人が安心して劇場に足を運び、オペラを鑑賞できる状態が戻ることを願っています。

びわ湖ホールのロビーから見える琵琶湖。
取材・文
井内美香
取材・文
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

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