地味で恐縮です! ウィーン古典派の残像を追う妄想♪音楽さんぽ〈前編〉プロローグ~ハイドン
音楽の都といえばウィーン、ウィーンといえば音楽。音楽を生業としている人ならウィーンくらい行ったことがあるはず……と思っているであろうクラシック音楽ファンのみなさん、その温かき視線を一身に受けて、恐れしらずのこの方がレポート!
1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...
うれしはずかし初めてのウィーン旅
こんにちは。飯田有抄です。実はわたくし、 ウィーンへ一度も行ったことがありませんでした。ウィーンといえば必ずついてまわるキャッチフレーズがあります。そう、「音楽の都」です。クラシック音楽にまつわる仕事に携わっているにもかかわらず、「音楽の都」に行ったことがないなんて! しかも、作品解説などの原稿では「○○○が活躍していたウィーンという街は…….」なんて書くこともあり、密かに実像を知らないことにイジケていました。作曲家たちが闊歩した街ウィーン、さまざまな音楽カルチャーが発信されてきたウィーン…….その空気を自分もいつか吸ってみたい! そう憧れてきました。
そんな私にも、ついにチャンスが来たのです! ウィーン市観光局の完全バックアップを受けながら、「ウィーン音楽旅」の取材ができることになりました。音楽の歴史を伝えるウィーン、21世紀の今を生きるウィーン。そんなウィーンと音楽文化の姿をレポートいたします。
作曲家たちが「生きていた!」と実感できる街、ウィーン
かつて学校の音楽室で目にしていたハイドンやモーツァルトやベートーヴェンの肖像画、覚えていますか?
遠い昔の、遠い異国の、自分とは異なる世界の天才たち。子どもゴコロに「この人たち、本当にいたのだろうか?」と実在を疑ったのは私だけではありますまい。
でも彼らの音楽に、今も私たちは心を揺さぶられます。それはとても不思議で、とても素敵なこと。彼らだって、生きて、食事して、誰かと喧嘩したり、ときに落ち込んだり、幸せを感じたりした同じ人間。「実在した人」として、少しでも近くに感じ取ることができたなら、なんだか嬉しい。
というわけで、ウィーンに降り立ったからには、まず「あの大作曲家も、ここを歩いたのね〜! こんな景色見てたのね〜! ここ触ったかもしれない……」的な、ミーハー心満載で作曲家たちが生きていた時代の、ゆかりあるスポット巡りを楽しみたい。
ウィーン古典派と呼ばれるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの息遣いを感じ取れるようなスポットをご紹介しましょう。
とはいえ、スポットによっては、けっこうマニアックで地味! うっかり見落としてしまいそうなくらい地味! ……もとい、街に自然に溶け込んでいる! そんなところも、さすがウィーン。
「音楽の都」と呼ばれるウィーン。オーストリアの首都であるこの街が、なぜ音楽の都と呼ばれているのかご存知でしょうか。
それは600年以上も前から、有力貴族のハプスブルク家がウィーンを帝都としてきたことに由来します。音楽をこよなく愛したハプスブルク家の人々は、儀式やパーティー、そして日常のシーンにおいて最良の音楽を楽しむために、優れたミュージシャンたちを宮廷に雇い入れ、音楽文化を育んできたのです。
ウィーンを中心に活躍した音楽家たちの中でも「ウィーン古典派」と呼ばれるヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1828)は、クラシック音楽を語る上で欠かせない存在です。3人とも生まれた場所はウィーンではありませんが、音楽家としてその名をウィーンに刻んだ重要人物たちです。
ウィーンはまさに音楽の歴史をたっぷりと吸い込んだ街。リング通りと呼ばれる、一周しても5kmほどの環状道路(かつてトルコ軍の攻撃から都市を守るべく建設された城壁の跡地を走る道路)には、ウィーン国立歌劇場や楽友協会といった音楽の殿堂が立ち並びます。
このリング通りからの徒歩圏内に、音楽家たちの歴史が息づくスポットが豊かに存在するのです。
ハイドンがここにいた!
メール・マルクト広場(今は地下駐車場のために大工事中!)
メール・マルクト広場に面し、現在はホテルが建つこの場所は、ハイドンが晩年の一時期住んでいたところ(1795〜97まで)。
晩年のハイドンといえば、モーツァルトもベートーヴェンも尊敬する大先生。 長年エステルハージ侯爵家にお仕えするスーパーサラリーマン的音楽家でしたが、国際的にも名声を轟かせていたハイドンは、リタイア後には英国にお呼ばれ。ものすごいギャラで晩年の交響曲や室内楽の傑作を書きました。
そんな大御所ハイドンが、現在のドイツ国歌である「皇帝賛歌」をここで作曲したそうです。そのことを示すプレートが地味に掲げられています。
ハイドン「皇帝賛歌」
上:広場は今、大規模工事! 街のあちこちで工事が行なわれている印象。ウィーンは日々更新されているのです。
オーストリア科学アカデミー講堂
現在、オーストリア科学アカデミーが使用するこの建物の講堂は、1808年3月27日にハイドンが最後の公式訪問をした場所。晩年の大作であるオラトリオ《天地創造》が、サリエリの指揮によって演奏されました。客席からは「長生きのハイドン、万歳!」と声が上がったとのこと。
この演奏会にはベートーヴェンも列席し、ひざまずいてハイドンの頰にキスをし、敬意を表したというエピソードが語られています。
ベートーヴェンは、故郷ボンからウィーンに出てきたばかりのころ、ハイドン先生に弟子入りをしたのですが、かなり忙しいハイドンは、満足なレッスンをしてくれなかったそう。ベートーヴェンがそれに対してグチをこぼしていたことが、ハイドンの耳にも入ってしまったらしく、二人の相性はイマイチだったようですが、やはり大御所の立派なお姿には、ベートーヴェンも素直に心打たれたのではないでしょうか。この建物は1848年までウィーン大学として使われていました。
ハイドンのオラトリオ《天地創造》
その向かい側の建物
フランツ・シューベルト(1797~1828)が1808~1813年、寄宿制の神学校時代に住んでいた寮。声変わりする前の、きっと可愛らしかったシューベルトが、ウィーン少年合唱団メンバーとして最後の日々を送った場所です。
シューベルトのお父さんは自宅で国民学校を運営していましたが、とても貧しい家庭でした。しかし音楽的才能が認められたフランツは、家庭の経済力には見合わない一流の教育を受けることができたのです。大人になると音楽の仕事になかなか恵まれなかったシューベルト。そんな彼の、最高に輝かしかった少年時代がここで送られていたわけです。当時彼はサリエリにレッスンを受けていました。
アントニオ・サリエリ(1750〜1825)の名前もよく出てきますね。イタリア出身で、ウィーンの宮廷楽長というトップポジションに君臨したサリエリですが、映画「アマデウス」ではモーツァルト毒殺疑惑の人としても描かれました。古典派時代の音楽家列伝を読んでいると、サリエリは本当によく登場します。この人もまた、音楽の歴史におけるキーパーソンですね。
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