続・ウィーン古典派の残像を追う! 妄想♪音楽さんぽ〈後編〉ベートーヴェン~モーツァルト
クラシック音楽のミーハー代表、でもウィーンは初心者……という飯田有抄さんがレポートする、ウィーン古典派をめぐる旅。後編は、前編よりは写真の見ごたえあり! モーツァルトとベートーヴェンに出会えた(?)興奮をお届けします。
1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...
モーツァルトがここにいた!
ドイツ騎士団の館
ウィーンの中心にある存在感満点のシュテファン大聖堂。その横には、ドイツ騎士団の館(Deutschordenshaus)があります。ここには25歳のモーツァルトが一時期滞在していました(1781年3月16日から5月2日まで)。
モーツァルトは故郷ザルツブルクを離れてミュンヘンに滞在し、なかなか地元に帰ろうとしませんでした。ザルツブルクのコロレド大司教は、ちっとも戻らないモーツァルトに腹を立てます。ウィーンに呼び出して話し合いを持とうとするのですが、双方ともにオトナな対応ができなかったのでしょう、残念ながら決裂することとなります。1781年、大司教の側近アルコ伯爵から、モーツァルトが“足蹴り”されたというエピソードがよく知られていますが、それが起こったのはまさにこの場所だったそうです。
「ああ、ここでかの“足蹴り”が!」と妙な興奮を覚える私でありました。不名誉なお話なだけに、モーツァルトよ、ごめんなさい。でも、その決裂があったからこそ、モーツァルトはここウィーンを本拠地として、新たな音楽人生へと舵を切ったわけです。
シュテファン大聖堂
ウィーンのシンボル的存在でもあるゴシック様式の大聖堂。モーツァルトがコンスタンツェとの結婚式を挙げ、また彼の葬儀も行なわれた場所です。
モーツァルトハウス・ヴィエナ
ウィーンで過ごした10年間に、なんと14回も引越しを繰り返したというモーツァルト。夜遅くまで楽器の音を出したために、常に近所からのクレームがあったとか、なかったとか。
中でも、およそ2年半(1784~87年)モーツァルトが暮らした家が今も現存し、自筆譜や当時の生活道具や衣装のレプリカなど、さまざまな資料が展示されています。間取りの模型などもあります。ここがキッチンで、ここが寝室、そしてここが仕事部屋、ということはここで傑作のペンを走らせていたのか〜……などと足を踏み入れると、大作曲家と心のコンタクトが取れるような気持ちになります。
この日は取材のため、特別にモーツァルトの筆跡が残る楽譜の写真も撮らせていただきました。さすがに触ることはできませんが、見るだけでもドキドキします。
2階の窓からは、モーツァルトも眺めたであろう同じ景色を見ることができます。目立つネオンや看板などもなく、この景観はこのまま残しておこうとするウィーンの人たちの思いも伝わります。
モーツァルトのオペラ《ルーチョ・シッラ》K.135~アリア「Ah si, scuotasi omai」
ベートーヴェンがここにいた!
アン・デア・ウィーン劇場
ベートーヴェンの伝記などでしょっちゅう見かけるのが「初演はアン・デア・ウィーン劇場」という情報。彼の交響曲第2、3、5、6番、ピアノ協奏曲第3、4番、ヴァイオリン協奏曲、オペラ《フィデリオ》などが初演された場所なのです。
ベートーヴェンの交響曲第2番
この劇場は1801年に建設されたオペラ劇場で、モーツァルトのオペラ《魔笛》の台本を手がけたエマヌエル・シカネーダーによって設立されました。当時の正面玄関として使われていたところには、パパゲーノ役を演じたシカネーダーのモニュメントがあります。
モーツァルトのオペラ《魔笛》の序曲、パパゲーノのアリア
ベートーヴェンは1803年3月から一時期この劇場の2階を住居としていた時期もあったとのこと。
ちなみに今回私は、アン・デア・ウィーン劇場の真横に位置する「ベートーヴェン・ホテル」に滞在しました。
コンパクトながら、各階に「ウィーンと愛」「ベートーヴェンとビーダーマイヤー」「劇場とウィーン」などのテーマがあり、全室内装が異なるという素敵なホテルです。私が泊まったのは「ウィーンのコーヒー文化」をテーマとした1階の部屋で、オーストリアのジャーナリスト、アントン・クーをイメージしたお部屋でした。
あのアン・デア・ウィーン劇場の真横と思うと、初日の夜は、興奮してなかなか寝付けませんでした。
テアター・ムゼウム(演劇博物館)
現在、演劇博物館「テアター・ムゼウム」として市民に開かれているこの建物内には「エロイカ・ザール」と呼ばれる部屋があります。ここはベートーヴェンを支えたパトロンの一人、ロプコヴィツ侯爵という人の邸宅だった建物で、かの交響曲第3番「英雄(エロイカ)」が初めて演奏された場所。プライヴェートな演奏会でした。
ケルントナー通り17番(今はデパート STEFFL)
ケルントナー通りとは、ウィーン国立歌劇場とシュテファン大聖堂とをつなぐウィーンで一番の華やかな通り。東京でいえば銀座のような雰囲気で、ショッピングを楽しむ人たちで賑わっています。
そんな賑やかな場所にちょっとそぐわない地味情報かもしれませんが、音楽ファンには重要なスポットがあります。晩年のベートーヴェンが弦楽四重奏曲第15番イ短調を作曲・演奏した建物が存在していたとのこと。ベートーヴェンは夏になると、ウィーンから26km南にある温泉保養地バーデン行きの馬車に、この辺りから乗ったそうです。ちなみに、弦楽四重奏曲第15番は、第3楽章がとりわけ美しいのでオススメ。温泉にゆっくり浸かっているかのような、体にじんわり沁みる音楽です。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番イ短調 第3楽章
最後にもう一度モーツァルトに会う!
ラウエンシュタインガッセ8番
上述のデパート「STEFFL」は、ウィーンでトップブランドを取り揃えた華やかなお店ですが、ケルントナー通りと反対側の小さな出口(ラウエンシュタインガッセ側)には、ウィーンで最初に製作されたモーツァルトの記念碑(ヨハン=バプティスト・フェスラー制作、イタリアの商人ピエトロ・ディ・ガルヴァーニが1849年に寄贈)が、これまた地味に、いともさりげなく置かれています。
なぜここにこの大きな胸像が置かれているかというと、実はこのラウエンシュタインガッセ8番地という住所は、モーツァルトが死を迎えるまで住んだ最後の家があった場所なのです。その建物のごく一部のみ、現在も残されています。亡くなった日付が刻まれたプレートを目にしながら、ついに「レクイエム」を完成させることなくモーツァルトがこの世を去ったのかと思うと、しみじみとします。
モーツァルト「レクイエム」
ここで、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの関係を少し見ておきましょう。3人の生没年に着目してください。
- ハイドン: 1732〜1809
- モーツァルト: 1756〜1791
- ベートーヴェン:1770〜1827
そう、生きていた時代が被っています。
ハイドンは若きモーツァルトの才能を高く評価し、友情も抱いていました。モーツァルトは「ハイドン・セット」と呼ばれる弦楽四重奏曲を献呈するほど、名高き先輩ハイドンを尊敬していました。
ベートーヴェンはハイドンに弟子入りするために故郷のボンからウィーンへと出てきました(残念ながら師弟関係はうまくいかなかったようですが)。そのようなわけで、3人とも同じ時代のウィーンの空気を吸っていたのです。
とはいうものの、3人の生没年をよ〜く見れば、ある重要な歴史的出来事があった時代であることがわかります。1789年のフランス革命です。
それまでの貴族社会が崩れ、市民たちが台頭するという、ヨーロッパ社会激動の時代を挟んでいます。そのため、貴族(エステルハージ侯爵家)への宮仕えで音楽家としての大半のキャリアを築くことのできたハイドンと、市民社会でフリーランスとして生き抜かねばならなかったモーツァルトとベートーヴェンでは、すでに音楽家としての生き方や創作の方向性にも違いがありました。
同じウィーンで過ごしながらも、まったく異なる人生を歩んだ3人の足跡。その一端が垣間見えるスポットが、ここウィーンに点在するのです。
(おわり)
関連する記事
-
オーストリア音楽トピック2024 本場で記念年の第九、ブルックナー、シュトラウス...
-
音楽ファン憧れの芸術の都 オーストリア・ウィーンで、うっとり音楽に浸る旅を
ランキング
- Daily
- Monthly
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly